2021年5月5日水曜日

2021年5月2日

 2021年5月2日 復活節第5主日礼拝説教要旨

    「イエスの名によって願うこと」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 14:1ー11節

 17世紀の作家シャルル=ペローの童話に、「おろかな願い」『ぺロー童話集』(天沢退二郎訳、岩波書店)というのがあります。貧しいきこりにジュピターが、「おまえが抱く最初の三つの願いを、完全に、聞き入れてやる」と言います。この民話を聞いた人はみんな、わたしなら何を願うだろうというふうに考えるだろうと思います。でも現実ではなく、民話の話だからなあと思います。しかしイエスさまは、私たちに「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14章13節)と言っておられます。

 今日の聖書の箇所はイエスさまの訣別説教です。この聖書の箇所は、教義的にみればイエス・キリストの十字架と復活、そして再臨ということが書かれてあります。しかし死を前にした人の言葉として読んだときに、ひとつのユーモアのような気がします。「わたしは死んでしまうけど、さきに天国にいって、あなたたちの場所をとっといてあげるから、心配するな。そして場所をとったらまた帰ってくるから、一緒に天国で楽しくしよう」。イエスさまもまた弟子たちに自分の死をユーモアで語ることによって、弟子たちの不安を静めようとされました。

 そしてイエスさまは言われました。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」。みなさんならこのイエスさまのユーモアに対してどう応えられますか。わたしならこう答えます。「イエスさま、それなら、上等な焼肉を食べさせてください」とか言います。するとイエスさまは「いいよ、焼肉をたべたあと、ケーキもつけてあげる」と言われるのではないかと思います。

 しかしそうしたユーモアの会話の中にあって、私たちはほんとうにイエス・キリストが望んでおられたことを知っているのです。イエス・キリストの名によって願うということは、自分勝手な願いをするのではないということを、私たちは知っています。イエス・キリストの名によって願うということは、イエスさまが望んでおられた願いを受け継いで、私たちが歩んでいくということです。しかしその歩みは悲愴感や先行きの見えない絶望の歩みではなく、ユーモアをもった希望に満ちた歩みであるのです。

 私たちはイエス・キリストが願われたように、「御国がきますように」という祈りを持ちながら、ユーモアと希望をもって歩んでいきたいと思います。


2021年5月1日土曜日

2021年4月25日

 2021年4月25日 復活節第4主日礼拝説教要旨

    「死を越えてわたしの隣にいてくれる方」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 11:17ー27節

 北条裕子の『美しい顔』は東日本大震災を背景にして書かれた小説です。主人公は高校生の女性で、母親の死を受け入れることができず、自分をごまかして生きています。そうした主人公を、小さい頃から彼女を知っている近所のおばさんが、おそろしいくらいに彼女を激しく諭すのです。「元にはもどれないの!」「あなた自身が、ひたすら悲しんで苦しんで怒って、そのあとで、だんだんと納得するしかないの。代わりなんて何もない。誰も、何も、あなたの代わりにはならない」。

 ラザロの死に際して、姉妹のマルタはイエスさまにラザロを生き返らせてほしいと願います。イエスさまが「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言います。「そんな教義的なことは知っているんだ」というわけです。「そんなことを言っているんじゃないんだ。わたしの兄ラザロが死んだのだ。わたしのこの悲しみ、この怒り、この喪失感をどうにかしてほしい。わたしの兄を生き返らせてほしい」。そのようなマルタに対して、イエスさまは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」というように信仰の本質を問うのです。

 マルタはイエスさまに兄ラザロを生き返らせてほしいと願います。そして結果的には、イエスさまはラザロを生き返らせます。しかしたとえラザロが生き返ったとしても、ラザロはいつかは天に召されます。そのあいだ、人生ですから、いろいろなことが起こります。つらいこと、悲しいこと、それは人間の人生のなかで避けようのないものです。そして私たちは信仰の本質的な問いに向き合うことになります。悲しみ、苦しみ、嘆きの中で、私たちを救ってくださる方がだれであるのかという問いです。どんなときもわたしの隣にいて、わたしを支え導いてくださる方はだれであるのかという問いです。死を越えてわたしの隣にいてくださる方はだれであるのかという問いです。

 すべてのことをイエスさまにお委ねして歩みましょう。イエスさまはいつも私たちを支え、導いてくださいます。


2021年4月23日金曜日

2021年4月18日

 2021年4月18日 復活節第3主日礼拝説教要旨

   「しるし」 木村良己牧師

    (元同志社中高キリスト教科教諭・紫野教会副牧師)

   マタイによる福音書 12:38ー42節

(1)「しるし」

 ■現代は「不信の時代」と呼ばれる。人間という存在が如何に信頼できないか!という前提で、「しるし・証拠」が位置づけられている。だから「しるしを見せろ!」「証拠を見せろ!」と息巻く。しかし、あらゆる問題は「信頼を寄せる」「信じる」ことでしか解決できないような気もするし、信頼を寄せた者だけが希望を捨てずに、その一瞬先をこじ開けることが出来るようにも思う。           

(2)マタイ12章38~42節:「人々はしるしを欲しがる」

 ■見出しは太字で「人々はしるしを欲しがる」と記されている。16章1~4節にも全く同じ太字の見出しがあり、いずれも当時の宗教的指導者たち=本来は対立関係にあったはずの三者が、共通の敵「イエスを試そうと」する。相手を信頼しない者たちから「しるしを見せろ!」とのやり取りが投げかけられるという、当時の権力構造の中にいる宗教的指導者たちとの対決こそが著者の意図なのだろう。   

 ■イエスはその「しるし」として、「預言者ヨナ」(旧約p1445~1448ヨナ書)、「南の国の女王」(旧約p546~p547列王記上10章1節~13節)を指し示す。

 ユダヤ人宗教的指導者たちが「聞く」ことをせずに目に見える「しるしを見せろ!」と息巻き、一方彼らが日頃から蔑視する異邦人「ニネベの人」「南の国の女王」が「聞いて悔い改めた」という「しるし」を示す所に、イエス一流の皮肉がある。

(3)「湖西線旧型車両の4人掛けBOXシート」=「後ろ向きに前進!」

(4)隠されている未来に向かって!

 ■イエスは「しるし」そのものを否定はしない。「しるし」を求める人々の態度を拒否する。「神の国=すべての人々と共存しうる世界」を目指すキリスト者にとって、イエスの言葉・振る舞いこそが神の国を指し示す「しるし」である。「しるしを見たら信じてやろう!」という態度に、神が「しるし」を見せることはない。求めないではいられない己の貧しさを知る人にこそ、神は「しるし」を見せる。そのイエスの言葉・振る舞いと直接的に出会い、神が為された過去をしっかりと見つめながら、隠されている未来に向かって「後ろ向きに前進」して行きたい。


2021年4月15日木曜日

2021年4月11日

 2021年4月11日 復活節第2主日礼拝説教要旨

   「信じられない弱さを抱えて」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 28:11-15節

 イエスさまがよみがえられたことを記してある復活の記事は、四つの福音書にそれぞれの形で記されてあります。マタイによる福音書は、復活の出来事を素直に信じて、そしてその喜びを謙虚に伝えていくということの幸いを、私たちに教えてくれています。

 イエスさまが十字架につけられたあとの弟子たちの歩みを考えるときに、それはイエスさまの復活がなかったとは考えられない歩みです。イエスさまが十字架につかれたとき、イエスさまを裏切り、ばらばらになった弟子たちが、キリスト教を広めていったのです。そういう意味において、復活は確かにあったと言えるわけです。けれどもだからといって、復活を証明できたということにはなりません。復活を証明することは不可能なのです。

 わたしは、マタイによる福音書28章17節の聖書の箇所が好きです。【そしてイエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた】。ひとつにはこの聖書の箇所を読むと、「おー、わたしが出てきた」というふうに思うからです。「わたしのことが聖書に記されているなんて、光栄だ」というふうに思います。そしてもうひとつには、「なんや、わたしのような信仰の弱い人は昔からおったんや」と、妙に安心するからです。

 復活は神さまの出来事です。神さまの出来事は、私たち人間を越えて働きます。私たちが信じようと信じまいと、そんなことには関係なく、神さまの出来事がなされるのです。弟子たちがイエスさまの復活を信じることができたのは、イエスさまが弟子たちのところにやってきてくださったからです。弟子たちもまた「信じられない」という弱さを抱えて生きていました。しかしイエスさまからのお働きによって、信じる者とされたのです。そしてなかなか信じられない人々もいたのです。しかしそうした人間の側の弱さを越えて、神さまの働きはなされるのです。

 自分の不信仰を嘆くのではなく、不信仰な私たちを憐れみ、愛してくださる神さまに希望をおいて歩んでいきましょう。私たちは神さまのことを忘れてしまうかも知れませんが、しかし神さまは私たちのことを忘れることはありません。


2021年4月8日木曜日

2021年4月4日

 2021年4月4日 復活節第1主日礼拝説教要旨

    「希望に変わる朝」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 20:1ー18節

 イースター、おめでとうございます。主イエス・キリストのご復活を心からお祝いいたします。イースターの出来事は人間が負け、そして神さまが勝利された出来事です。人間は負けたのです。人を辱めることによって、自分をはずかしめ、力を合わせて生きていくのではなく、人をおとしめることによって生きていく道を、人間は選んでいくのです。しかしそうした希望のない人間に対して、神さまはイエスさまを復活させてくださり、そして私たちの希望の光としてくださったのです。

 受難物語や復活物語をよむときに、「人間って、だめだな」ということを思わされます。復活物語は、イエスさまがよみがえられたことを弟子たちがすぐに信じたというようなことが記されているわけではありません。信じられない人間の姿が描かれています。しかしこの「人間って、だめだな」ということがとても大切なことなのだと思います。

 将棋やチェスのようなボードゲームには、最後までゲームをするのではなく、「投了」という形で負けを認めるということがよく行なわれます。負けている側が「負けました」と言って、ゲームを終えるわけです。そして将棋などではそのあと「感想戦」があるわけです。行なわれたゲームをふりかえるのです。しっかりと負けを認めて、そしてどのような負けであったのかということを振り返ることによって、新しい歩みが始まるのです。

 イエスさまの遺体がないことに混乱し不安になったマグダラのマリアは泣くしかありませんでした。しかしそののち、天使たちに出会い、そして園丁のように見えたイエスさまに出会い、そしてイエスさまから「マリア」と声をかけられ、よみがえられたイエスさまに気がつきます。そして最後にはっきりと、マグダラのマリアは「わたしは主を見ました」と弟子たちに告げたのです。

 その「わたしは主を見ました」とのきっぱりとしてマグダラのマリアの声に、私たちは希望の朝があることを知るのです。イエス・キリストが私たちのためによみがえってくださり、希望の朝をもたらしてくださるのです。私たちを赦し、私たちを励まし、そして私たちをもう一度立ち上がらせてくださるのです。

 イースター、よみがえられたイエスさまと共に、安心して歩んできましょう。主イエス・キリストは私たちを見捨てることなく、私たちと共に歩んでくださいます。


2021年4月2日金曜日

2021年3月28日

 2021 年 3 月 28 日 受難節第6主日礼拝説教要旨

    「いやな私がここにいる。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 27:32 ー 56 節

 今日は棕櫚の主日です。棕櫚の主日から、イエスさまが十字架につけられる受難週が始まります。

 今期、芥川賞に選ばれた、宇佐美りんの「推し、燃ゆ」を読みました。宇佐美りんは受賞者インタビューのなかでこんなことを言っています。【よく、「明けない夜はない」というようなことを言う人がいますよね。もちろんそれはその人にとっての真実だと思うのですが、私は「明けなさ」もあると思っていて。私は、少なくとも三年の間「夜が明けない」状況で出口が見えなかった。だから「明けない夜はない」とか、そういうことは言えません。自分にとって本当に大切だった人や時間が壊れていく喪失感や痛みにどうやって耐えるか、耐えられなくても続く現実とはどういうものか、そういうことに関心があります】(文藝春秋 3 月号)。マタイによる福音書の著者は、イエスさまの苦しみや、イエスさまを取り巻くイエスさまの弟子たち、ユダヤの指導者たち、ヘロデ王、総督ピラト、十字架の下の兵士たち、十字架の上の強盗たちについて、「明けない夜」の様子を丁寧に描いています。

 受難物語を読むとき、「いやな私がここにいる」と思います。私たちは生活の中で、出会いたくないいやな自分に出会うことがあります。大きな声で人をどなっていたり。悪いとわかっているのに「自分は悪くない」と言い訳をしたり。自分より立場の弱い人にいじわるをしてみたり。卑怯なことをしているとわかっていても、恐くて恐くてたまらなくなり逃げ出してしまったり。人をおとしめることで、どうにか自分の立場を守ってみたり。そうした自分に出会うとき、自分のことがとてもいやな気がします。

 そして私たちは私たちの悪しき歩みが、イエスさまを苦しめ、イエスさまを十字架へとおいやっていくことを知るのです。自分の心の中にある悪しき思いを見つめることは、とても苦しいことです。しかし私たちの中にある悪しき思いを深く深く見つめることによって、それでも私たちを愛し、そして救ってくださる神さまの愛に出会うことができるのです。どんなに愚かで、どんなにいい加減な人間であったとしても、わたしを愛し、わたしを救ってくださる神さまがおられるのです。その神さまの愛が、私たちの希望であるのです。


2021年3月25日木曜日

2021年3月21日

 2021年3月21日 受難節第5主日礼拝説教要旨

   「敵でも味方でもない」 山下壮起

     マタイによる福音書 5:38ー48節

 昨年11月、大阪都構想をめぐる住民投票とアメリカ大統領選挙が行われました。この二つの結果は決して手放しで喜べるものではないと思います。なぜなら、大阪市もアメリカも半々に分断されてしまったからです。吉村府知事は「負けたから間違っていた」と語りましたが、数による勝敗は物事の正しさを証明するものであってはなりません。多数の人が選択したことが正しいことになるのであれば、群衆がイエス様を十字架に架けろといって殺した、あの出来事も正しいことになってしまいます。

 また、バイデンの「一致・結束」の呼びかけに対して、インターネット上で多くの黒人たちが「バイデンが勝った。これで通常の人種差別に戻るんだな」と書き込んでいました。白人男性であるバイデンの言う「分断の克服」が以前の社会を「一致・結束」したものと見るなら、それはこれまでずっと差別によって分断されてきたマイノリティの存在を無視するものだからです。

 今日の聖書箇所の背景にあるのは、ローマ帝国の植民地支配によってユダヤの人びとが虐げられ、搾取されていた状況です。この状況のなかで、イエス様は「手向かうな(武装抵抗するなの意)」「敵を愛せ」「徴用されたらそれ以上歩くように」と語ります。これらの言葉は支配を受け入れろというものでは決してなく、自分たちの人間としての尊厳を奪うことはできないことを示すものです。そして、尊厳をもって生きることを諦めないために「敵を愛する」生き方をイエス様は示しました。それは人びとを敵と味方に分断し、暴力によって支配する統治の在り方から離れることです。

 そして、そこには民衆を敵と味方に分断する政治によって見えなくされ、敵にも味方にもされず、社会から隔絶された人びとへの眼差しがあります。その人びとの視点に立つことから、分断を利用する支配の政治に翻弄されることから脱け出し、神の国を目指す歩みが始まるのだとイエス様は指し示しています。それゆえに、「貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人」は幸いであるという言葉が5章の冒頭に記されるのだと思います。

 目の前にいる人は敵でも味方でもない。神様に愛された一人の尊厳ある人間である。ただそれだけ。そのことを信じて生きていく。そのような信仰に立って生きていきたいと思います。