2021年7月8日木曜日

2021年6月27日

 2021年6月27日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

   「人間の救い」 山下毅牧師

    マルコによる福音書 15:33-41節

 ユルゲン・モルトマンというドイツの高名な神学者がいます。第二次大戦にヒットラー・ユンゲントとして参戦しました。大変な苦難に会い、イギリスの捕虜収容所で聖書に出会います。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」との受難のイエスの言葉が、自分に語られたものだと、確信し、共に苦難を歩まれるイエスに出会います。救いを確信するのです。これは詩編22編の引用と言われていますが、神から捨てられた、罪深い人間の叫びを、イエスが代わって私たちの十字架を負い、絶望と見える棄てられた状況のどん底において、なおも固く神の御手に支えられていることを信じうる最後の依り頼みであり、イエスのこの叫びにおいて、人間の救いの道が開かれたのです。

 私どもはどんなに絶望しても、イエスほど絶望することはないのです。私どもの心は罪のために鈍くなっていますから、私どもは神に棄てられてしまうことがどんなに恐ろしいことか、分からないのです。私どもは絶望しても、主イエスのように絶望することはもうないのです。そしてわたしほどもう苦しまなくてもいいのだと言ってくださいます。まさにそのような意味において、心に深く刻み、愛唱すべき言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」が与えられていることを感謝するのであります。

 モルトマンは語ります。「わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言う問いに対しては、本当にただ一つの回答は、復活だと述べます。「死は勝利に飲み込まれたのです」。自分から苦しんだことのある者のみ、苦しんでいる人を助けることができるのです。このことは、古くからある知恵です。

 情熱を持って愛して下さるキリスト、迫害されたキリスト、孤独なキリスト、神の沈黙に悩むキリスト、死に際し全く私たちのために、私たちのゆえに全く見捨てられたキリストこそ、すべてをゆだねることのできる兄弟・友人のようなお方です。キリストの十字架にあって、希望が暗闇から再び生まれてきます。人々がそのことを心に刻んだものは、もはや暗闇を恐れません。その希望は固くゆるがないものとされ、復活されたキリストが共にこの世の旅路を歩んで下さいます。主を喜びつつ、感謝しつつ、祈りつつ、この世の旅路を歩みたいと思います。     


2021年6月20日

 2021年6月20日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

   「すなおにごめんって言えますか。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 5:21ー26節

 保育園の園長をしていたとき、ときどき園児のいざこざの仲裁をするというようなことがありました。両方の園児の言い分を聞いて、仲裁をするわけですが、いざ悪かったほうが「ごめんね」と言う段になると、「ごめんね」ということに納得せず、まだまだ仲裁は続くというようなこともあります。小さい子どもでもやっぱり「ごめんね」というのは大変なのかと思ったことがありました。

 イエスさまは争いごとを解決することについて、たんに律法や法律に書かれてあることを行なうだけで良いということだけでなく、人の内面を問題にされました。法律において裁くのであれば、「殺すな」ということで、殺していないのであれば、それで良いわけです。しかしイエスさまは人の内面を問題にされ、「あなたのなかにあるその憎しみとか怒り、裁かれることがないのであれば、殺してやりたいと思うその気持ちはどうなのだ」と問われました。そして「バカ」とか「愚か者」と言う者も、火の地獄に投げ込まれるのだと、イエスさまは言われました。

 船橋洋一は、【国を愛することは、日本と日本の過去を美化することではない。和解とは究極的には、それぞれの個人の心からしみ出す悔悟と、心からにじみ出る赦しの交差するところに生ずる潤いを必要とする営為であるに違いない。・・・。自分たちがどのような国民でありたいのか、日本をどんな国にしたいのか、後世、私たちはどのような民族として記憶されたいのか、という志の領域の話である】(あとがき『歴史和解の旅』)と言っています。

 「すなおにごめんって言えますか」と言われますと、「まあ、言えないなあ」と思います。「なんでわたしがあやまらなければならないんだ。あいつのほうが悪いじゃないか」と思えます。たしかにあいつも悪いのです。ただあいつもわたしも、神さまの前では、欠けたところの多い、おろかな人間なのです。互いに責め合うのであれば、欠けたところが多いわけですから、責めるところはたくさんあるでしょう。しかしそうした欠けたところを持ちつつ、わたしもあいつも、神さまにとっては大切な大切な一人であり、また一人の罪人であるのです。

 私たちは神さまを信じる者として、互いに欠けたところのある者ことを受け入れつつ、歩んでいきたいと思います。神さまの前で、すなおに悪かったことを悪かったと認めて、健やかに歩んでいきたいと思います。


2021年6月17日木曜日

2021年6月13日

 2021年6月13日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

   「あなたらしいすてきな人に戻る。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 5:13ー16節

 アメリカの子どもはもともと恥ずかしがり屋ではないけど、両親からいろいろ言われて、良い子にならなくちゃと思っているうちに、恥ずかしがり屋になってしまう。だから学校では「恥ずかしがってはだめよ」と教える。中学校の英語の教科書に書かれてある話を読みながら、わたし自身、自分のことをダメだダメだと思い込まず、「いや、もともと、わたし、もっといい人間だったのと違うの」という思いをもった方がよいのではないかと思いました。

 イエスさまは「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。そんなことを言われても、私たちにはちょっと荷が重すぎるのではないかと、私たちは思います。そんな人前で輝かせるようなものは何もないわ。こころのなかはどうしようもなくどろどろとしていて、悪いことばかりを考えてしまう。口を開くと人を傷つけてしまう。そんな「地の塩、世の光」とか言われても、「そんないいものじゃないわ。わたしは」。

 しかしイエスさまは、あなたたちは地の塩として、神さまから作られているのだ。あなたたちは世の光として、神さまから作られているのだ。イエスさまは私たちに「あなたたちはすばらしい人として作られているのだ」と言われるのです。

 イエスさまは「あなたらしいすてきな人に戻りなさい」と言われます。いつも怖い顔をして怒っているのは、あなたらしくない。いつも不機嫌そうな顔をしてぶつぶつといっているあなたは、あなたらしくない。人に冷たくあたったりするのは、あなたらしくない。

 イエスさまは「あなたらしいすてきな人に戻りなさい」と言われます。そのすてきな笑顔でほほえむあなたに戻りなさい。人が困っていると、すっと手を差し伸べることができる、そのすてきなあなたに戻りなさい。いつもやさしい気持ちで人と接している、すてきなあなたに戻りなさい。弱い立場の人の側にたって、配慮をすることができる、すてきなあなたに戻りなさい。ご飯をおいしそうに食べる、あなたらしいすてきな人に戻りなさい。

 わたしらしいすてきな人に戻って、わたしらしい豊かな歩みをいたしましょう。


2021年6月11日金曜日

2021年6月6日

 2021年6月6日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「悔い改めて、新しく始めよう」 小笠原純牧師

マタイによる福音書 3:1ー6節

讃美歌21の424番「美しい大地は」は、フィリピンの讃美歌です。「2.貪りの心が 正義を踏みにじり 貧しい人々の 大地を取り上げる。 喜びの歌声、 涙に変わりはて、 緑のこの土地は 灰色にかわる」。フィリピンはスペインやアメリカといった国々から支配をされた歴史をもっています。そして私たちの国もまた、フィリピンの美しい大地を踏みにじった国の一つです。フィリピンではナショナリズムは、「外国人によって踏みにじられた祖国の大地が泣いている」「正義が踏みにじられ、美しい大地が泣いている」という感じで表されます。讃美歌21の「美しい大地は」という曲は、ナショナリズムということを越えて、もう一歩進んで、「美しい大地は 私たちの神が 与えられた恵み、貴い贈り物」なのだということを歌っています。

洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めを迫りました。洗礼者ヨハネやイエスさまの時代というのは、ユダヤがローマ帝国によって支配されていた時代です。乳と蜜の流れる地と言われた大地が、外国人によって踏みにじられている時代でした。苦しんでいる人々や貧しい人々がたくさんいる時代でした。そんな時代、洗礼者ヨハネは、神の国がもうそこまで来ていると告げ、人々に悔い改めを迫りました。神さまはこんなひどい世の中を、いつまでもこのままにしておかれない。この世の中の不正や苦しみや悲しみをつくりだしているのは、私たちが神さまのみ旨に反して生きているからだ。私たちの罪のためだ。洗礼者ヨハネは、そう言って、人々に悔い改めを迫りました。

新型コロナウィルス感染症のために、世界中がこの1年半、格闘しています。新型コロナウィルス感染症に打ちのめされたという気がします。そして持てる者(国)と持たざる者(国)との格差が、明らかになってきています。

いま、洗礼者ヨハネが私たちの世の中に現れたら、私たちに悔い改めを迫るだろうと思います。「新型コロナウィルス感染症のワクチンを打つことができる国と、十分に打つことができない国があるのは、どうしたことか」「貧しい国の人々にも同じようにワクチンを届けていくという世の中ではないのか」「お前たちの社会は、そんなにさみしい社会なのか」。

私たちの世の中が神さまの御心にかなった、良い世の中になりますようにと祈る者でありたいと思います。


2021年5月30日

 2021年5月30日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「賢いものには見えない。」 小笠原純牧師

マタイによる福音書 11:25ー30節

人は自分の都合の良いように人を動かそうとしたりすることがあります。また自分の考えが正しいから、その考えを人々に知らしめたいと思うことがあります。そしてそのことのゆえに、とても激しい調子で、人を問いただしたりしてしまうことがあります。自分が知恵ある者だと思って、知恵のない人に教えてやらなければならないという思いにかられることがあります。

わたしはこころのなかに激しい思いがあるので、そうした思いに引きづり回されてしまいがちです。正しさを振り回して、人を傷つけてしまいそうになります。そうしたとき、神さまに祈り、そして心を落ち着けなければならないと思います。「穏やかに、健やかに」ということを大切にしたいと思うのです。

イエスさまは神さまのことは、知恵ある者や賢い者にはわからないのだ。それは隠されているのだと言われました。それでは神さまのことは、どういう人がわかるのかということですが、それは幼子のような者だと言われます。幼子のように、素直なこころを持つ者、また社会的な力がある者ではなく、力のない者、そういう人が、神さまのことがよくわかると、イエスさまは言われました。

イエスさまは「わたしに学びなさい」と言われました。自分が知恵ある者、賢い者と思って思い上がるのではなく、わたしに学びなさいと、イエスさまは言われました。そしてイエスさまはご自分のことを、「わたしは柔和で謙遜な者」と言っておられます。ですから、私たちも柔和で謙遜な者になりたいと思います。

あんまり一生懸命になりすぎると、ちょっと疲れてしまうのです。イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。また「あなたがたは安らぎを得られる」と言われました。ですから私たちは健やかに、イエスさまに従っていきたいと思います。心の中に、「ちょっと、これ、いやな気持ちだなあ」と思うものが見つかった時は、少し、休みたいと思います。「イエスさま、ありがとう」「神さま、ありがとう」という気持ちが、心の中に一杯あるようなそうした歩みでありたいと思います。

 

2021年5月28日金曜日

2021年5月23日

 2021年5月23日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

   「すてきな世の中にしようよ」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 12:14ー21節

 ハーバード大学の政治哲学者のマイケル・サンデルは、コロナ後の世界のために必要なこととして、次のようなことを言っています。「民主主義国の市民が分かち合う公共空間を作り直さなければなりません。民主主義国に相応しい暮らしに必要な市民のインフラを作り直し、階級が異なる人や生活条件が異なる人と出会えるようにするのです。市民社会を刷新して、活性化させていくのです。自分たちだけの狭い世界を壊して、ともに民主主義を実践していくのです」(『新しい世界 世界の賢人16人が語る未来』、講談社現代新書)。

 わたしは、「階級が異なる人や生活条件が異なる人と出会える」場所というのを聞いて、「ああ、それって、教会じゃないか」と思いました。これからの社会に対して、私たちクリスチャンはとても重大な責任を負っていると、わたしは思います。

 イエスさまはイザヤ書に書かれてある「主の僕」のような方であったと言われています。私たちの救い主イエス・キリストは、【傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない】人であったと、聖書は記しています。傷つき倒れそうな私たちのことを愛してくださり、私たちを救ってくださる。消え入りそうな私たちのことを守ってくださり、そして私たちを支えてくださる。イエスさまは大声で人を脅したり、暴力でもって支配しようとされたりなさいませんでした。小さな声に耳を傾けてくださり、私たちの思いを知ってくださる方でした。私たちはそうしたイエスさまに招かれて、教会に集っています。

 今日はペンテコステです。ペンテコステは教会の誕生日と言われます。社会が分断され、互いにののしりあい、蔑み合う場面の多い社会の中にあって、すべての人々が等しく神さまの前に一人の人として大切にされる教会は、とても大きな意味のある大切なところです。

 魂の安らぎを求める人たちが、私たちの教会に来て、安心して、神さまの愛を感じることができるようにと、私たちの教会を整えたいと思います。私たちは一人一人大切な人間として、神さまから愛されています。その神さまの愛を、神さまのことを知らない隣人に届けていきたいと思います。


2021年5月21日金曜日

2021年5月16日

 2021年5月16日 復活節第7主日礼拝説教要旨

   「生きた水を求めて」 生田香緒里牧師

    ヨハネによる福音書 4:7ー15節

 フォークダンスの「マイム・マイム」は、掘り当てた井戸の周りで輪になって踊り、「マイムマイムマイムマイム、ウ、マイム、べサッソン」と歌いながら井戸に向かって駆け寄っていく様子を表現しています。ヘブライ語で「マイム」は「水」、「べサッソン」は「喜びのうちに」という意味です。その歌詞には、『イザヤ書』12章3節の「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」という言葉が使われています。

 イスラエルの土地は半乾燥の気候で降水量が少なく水は貴重でした。古代から、泉のある場所に街を作り、泉がなければ井戸を掘って水を得ていたようです。「マイムマイム」の歌詞は、神の恵みを水にたとえ、「神との出会い(恵み)は、砂漠の民が水を得るように喜ばしい」という神への感謝を表しています。

 今日の聖書では、井戸が舞台になります。その井戸はヤコブの井戸と呼ばれ、その昔、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあるシカルというサマリアの町にありました。サマリア人とユダヤ人とは宗教的・民族的なことで敵対関係にありましたが、イエスはサマリアに神さまの愛を伝えに行きました。イエスは旅の途中で疲れて井戸のそばに座り、水と食料を必要とした時に、サマリアの女が人目をさけるように正午に水汲みにやってきます。イエスはその女に水を飲ませてくれるよう頼みますが、女は躊躇します。そして、イエスが永遠のいのちの水について語ったことで立場が逆転し、女はイエスに水を飲ませてほしいというのです。

 イエスは人格を尊重し、相手を信頼します。女は人間に対する信頼と愛を失い、彼女自身、自分が他者から愛されたり、信頼されたりすることが出来るとは思っていませんでした。イエスがもう一度水を飲ませてほしいと言うことによって、彼女は隣人に愛を与えることのできる者とされ、そうなるように期待されていることに気づくのです。弱く助けが必要な姿でイエスが女に接した時に、彼女に新しく立ち直る機会が与えられたのです。

 私たちは、自分が傷つき苦しんでいる時、心に壁を作って、心を閉ざしてしまうことが多くあります。それは、心を開くことによって、また傷つけられるかもしれないという恐れから、そうしてしまうのかもしれません。私たちの心の壁を取り払い、私たち一人一人を愛し、大切にしてくれるのがイエスです。その愛に触れた時に、私たちは凍った心を解凍し、人にやさしくすることが出来るのです。イエスの愛で満たされた時、私たちの心から愛があふれ出ます。イエスに向かって、一人一人が心を合わせる時、何事でもできるのです。本当に大切なものを見いだし、平和を作り出すことができるのです。そのような生きた水であるイエスの愛を求め続けて、歩んでいきたいものです。