2021年8月27日金曜日

2021年8月22日

 2021年8月22日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨


   「裁きは神に。あなたは人にやさしくしなさい。」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 13:24ー43節


 『どんぐり』は若くして亡くなった妻と寺田寅彦の思い出が書かれてある随筆です。妻の身の回りの世話をしてくれたのは、美代という女性です。寺田寅彦は、美代の気立てのやさしさや正直ものであることに目を向けて、いろいろな失敗をしたり、大変なことが起こったりしても、でもこの美代が妻のために一生懸命に働いてくれたことに対する感謝の気持ちは薄らぐことはないと言います。

 イエスさまの毒麦のたとえは、「人を裁くのは慎重にしたほうが良い」というたとえです。またイエスさまはからし種のたとえ、パン種のたとえをはなされ、天の国はどんどんと大きくなるのだと言われました。現実の世界はとてもさみしい出来事が起こり、人々の暮らしはよくないし、争いごとも多いけれども、でも神さまの御心が私たちの世界に一杯になり、天の国はどんどんと広がっていく。

 私たちはすぐに「わたしが正しくて、あの人は間違っている」と思いたがります。私たちはすぐに人を断罪したがります。人を断裁するとき、悪い人を断罪している自分は正しい人だと思えるからです。そしてすぐに腹を立てます。しかし腹が立った時、私たちが本当にしなければならないことは、自分に神さまの愛が足りないということに気づくことです。「人を裁いているわたしは悪い人だ」と悔い改めるということも大切なことですが、しかしその前に、自分に神さまの愛が足りていないと気づくことは、もっと大切なことだと思います。

 神さまの愛が自分に足りていないから、私たちは怒るのです。怒りで一杯になっている時、神さまから見れば、私たちは危篤状態なのです。神さまの愛が自分に十分に感じられるとき、私たちはやさしい気持ちになることができます。腹を立てているとき、私たちは「神さま、わたしをあなたの愛で満たしてください」と祈りたいと思います。

 あなたがいちいち、悪い人を探して、「こいつが悪い。あいつが悪い」と裁いていかなくても、天の国はどんどんと広がっていく。だから安心して、裁くことは神さまにお任せして、あなたは人にやさしくしなさい。イエスさまはそのように言われました。

 神さまの愛を一杯に受けて、安心して、小さな良きわざに励みたいと思います。

2021年8月20日金曜日

2021年8月15日

 2021年8月15日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

   「兄弟姉妹そして母」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 12:43ー50節

 歌舞伎役者の世界は血縁で代々受け継いでいくということが多いですが、落語の世界は違います。落語家の親が落語家であるというわけではありません。桂ざこばは桂枝雀のことを「枝雀にいちゃん」と言いました。落語という志のなかの兄弟であるわけです。

 最近は、LGBTQというように、性的少数者(セクシャルマイノリティ)の主張がとりあげられるようになりました。レズビアン(女性の同性愛者)、ゲイ(男性の同性愛者)、バイセクシャル(両性愛者)、トランスジェンダー(「身体の性」と「心の性」が一致しないために「身体の性」に違和感を持つ人)というたちの生きづらさが語られます。そういうこともありますので、「兄弟姉妹」という言い方が、ふさわしいのかとか、男女にわけて名前を記すのが適当であるのかというような問いかけもなされます。ただ信仰の交わりとして、血縁の家族ではない家族のような交わりとして、教会は兄弟姉妹という関係を大切にしてきました。

 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。イエスさまの言葉はイエスさまの家族にとっては打ちのめされるような言葉だと思います。しかしこの言葉を聞いて、とても喜んだ人々もいたわけです。それは「わたしには家族がない」と思っていた人たちでした。「わたしには家族がない」というさみしくせつない思いをもっている人たちに、イエスさまは「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われました。教会の中で、「この人、わたしの弟」「この人、わたしの妹」と思う人を覚えて、いつも弟のこと、妹のことを覚えて、自分の祈りに加えるということは、とても大切なことだと思います。

 私たちはイエスさまの教えに、そのときは「そうだなあ」と思いつつも、すぐに汚れた霊が住み込んでしまうようなこころの弱さを持っています。七つの悪い霊が住み込んでしまっているのではないかと思えるようなときがあります。そんな私たちですけれども、しかしイエスさまは私たちの家族となってくださいました。私たちは神さまの愛に満ちた世界を願い求める家族です。敬愛する兄弟姉妹に囲まれて、神さまを慕い求めて歩んでいきましょう。


2021年8月13日金曜日

2021年8月8日

 2021年8月8日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

   「蛇のように賢く、鳩のように素直に」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 10:16ー25節

 『<効率的な利他主義>宣言! 慈善活動への科学的アプローチ』(みすず書房)のなかで、ウィリアム・マッカスキルは、慈善活動を効率良くする方法について語っています。慈善活動をしている団体のことを詳しく調べ、ここに募金をすると、一番効率良く、世の中のためになるということを明らかにします。慈善活動も自分がその活動のために働くよりも、自分が効率良く稼いだお金で、その団体に募金をしたほうが効率良いというようなアドバイスをしています。ウィリアム・マッカスキルの言うことにすべて納得がいくというようなことでもないのですが、その冷静な論の進め方は、なかなかおもしろいなあと思いました。「蛇のように賢く」生きる知恵のような気がします。

 イエスさまは弟子たちを派遣するときに、弟子たちが迫害を受けることを語っています。そして「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われました。アジア・太平洋戦争中、クリスチャンは戦争に協力をし、そしてまたいろいろな迫害も受けました。『平安教会百年史』には、アジア・太平洋戦争のときの教会の様子として、次のような記述があります。【一九三七年から一九四五年にいたるこの期間は、軍国主義のもとにおける戦争の暗黒時代であった。教会には目立った抵抗運動もないまま、結果的には、皇道主義、軍国主義の国家体制の中で、従順にこれに従わざるをえなかったという歴史が深い傷跡のように残されている】(p.130)。国家が誤った歩みを始めると、それを止めることはなかなかむつかしいことです。そうなる前にとめなければなりません。

 「蛇のように賢く、鳩のように素直に」生きようと思うわけですが、実際問題、「蛇のように賢く」と言われても、世の中はきびしく、激しい迫害の前に、ただただ翻弄されて、どうしたら良いのかわからないというようなことが多いのだと思います。ですからイエスさまは結局、「鳩のように素直に」神さまに従って歩むということを大切にしなさいと言われました。

 私たちクリスチャンは、ただ神さまの方を向いて、「鳩のように素直に」神さまに従って歩むということを大切にしたいと思います。それは愚かなことに見えるときもありますが、しかし神さまに向き合って歩むとき、私たちの歩みは良き歩みであり、神さまから祝福された歩みであるわけです。素直に、神さまを信じ、神さまに依り頼んで、歩んでいきましょう。


2021年8月6日金曜日

2021年8月1日

 2021年8月1日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨


   「神さまの平和を届ける人に」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 9:35-10:15節


 ヒトラーのような人をどうしてドイツの人びとは支持したのかと思いますが、そのことについてはキリスト教が果たした役割というのは小さくはないようです。【なぜ人びとは反発しなかったのか。そのひとつの答えは、国民の大半がヒトラーの息をのむ政治弾圧に当惑しながらも、「非常時に多少の自由が制限されるのはやむを得ない」とあきらめ、事態を容認するか、それから目をそらしたからである。・・・。いまひとつは、プロテスタントとカトリックの両キリスト教会が、それぞれの宗教指導者の態度表明を通して、ヒトラーーへの支持を訴えたことである。プロテスタント教会の有力者、オット・ディベリウス主教は「ポツダムの日」に際してプロテスタント派国会議員のためにニコライ教会(ポツダム)でミサを行い、そこでヒトラーを民族の指導者として讚えた。一方、カトリック教会では、フルダ司教会議による「カトリック司教の声明」が、ヒトラーを頑なに忌避する信者の態度を変えさせた】(P.170)(石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』、講談社現代新書)。やっぱり宗教者がいいかげんなことをしていてはいけないのだと思わされました。

 「十二人を派遣する」という表題のついた聖書の箇所には、イエスさまが十二弟子たちに対して、宣教・伝道する際の細かい注意事項が記されてあります。いろいろと大切なことがあるわけですが、イエスさまは、家を訪ねて、その家に神さまの平和を届けるということが、弟子たちに託されたことだと言っておられます。【その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる】。

 戦後、76年を経て、「ナチス・ドイツも良いことをした」というふうに言い出す人々がいます。「戦争中の日本も良いことをした」と言い出す人々が出てきます。私たちはコツコツとそうした誤ったことを言い出す人たちに対して、「それはおかしなことだよ」と、伝えていきたいと思います。

 神さまの平和はすべての人々にとっての平和です。力によってもたらされる平和ではありません。国は自分たちの国にとって都合の良い平和を作り出そうとします。しかし神さまの正しさがあふれている平和でなければなりません。私たちは神さまの平和を届けていく者でありたいと思います。


2021年7月30日金曜日

2021年7月25日

 2021年7月25日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

   「すべてのことは」 内山宏牧師

    ローマの信徒への手紙 8:26-30節

 私は出身教会の鳳教会で人生の5分の2を過ごしたことになります。その私にとって神学部大学院の2年間、派遣神学生として過ごした京都教会での経験はとても貴重なものでした。そこで出会った友人のY君から28節の御言葉を要約した「すべてのことは主にあって益となる」という言葉と、「クリスチャンは、意識している時だけではなく、意識していない時も、眠っている時だってクリスチャンなのだ」ということを教えられました。

 当時の私は自覚的であることをよしとし、「しなければならない」、「こうあるべき」という生き方を追い求めながら、しかし、そうではない自分に悩んでいました。そんな私にとって、彼の言葉とその言葉の通りに肩をはらず、しなやかに生きている友人の姿は実に新鮮であり、私の心を解き放つ出会いとなりました。

 彼のあり方自体が一つの信仰告白であり、証であったと思います。何故なら、信仰とは自分に何ができるか、どのような力があるかということが問題ではないからです。御言葉によるならば、聖霊が「弱いわたしたちを助けて」くださり、また「共に働いて」くださるからです。だから、私たちは「すべてのことを」、たとえ当面はマイナスに思えることも、取り除きたいと思う事を含めて、そのすべてが益となる、そのように変えられていきます。だから、私たちは神様がそのように働いてくださるという希望において、その時が来るまで、待つことができます。

 ただ、今はとても難しい時代です。本当に「すべて」ですかという問いを思わないわけにはいきません。けれども、御言葉はそれでもこう語るのだと思います。そうだ、すべてだ。万事が益となるように共に働く。神の歴史においてそうなのだと。

 今、目の前にある苦難、直ぐには解決できない困難な課題であっても、必ずそこに秘められた意味があるということを信じ、やがて神様ご自身が共に働いてくださり、すべてのことを益としてくださるという希望において、その場に踏みとどまりたいと思います。

 やがてはすべてを完成してくださる方がおられる、という信仰において、待ち望む。ここから今という困難な時代に向き合いながら、それでもしなやかに生きるあり方というものが現れてくるのではないでしょうか。


2021年7月23日金曜日

2021年7月18日

 2021年7月18日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

  「神さまのもとに生きている」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 8:5ー13節

 トマス・アクィナスは13世紀の中世ヨーロッパの神学者・哲学者です。『神学大全』を書きました。トマス・アクィナスはこう言います。【神が諸々の事物を存在にまで産出したのは、諸々の被造物に自らの善性を伝達し、これ(善性)をこれら(の被造物)を通じて表現するためであった】(P.212)。【すべての被造物は神の善性を分有していて、所有している善を他のものへと拡散させる。なぜなら、自らを他のものへと分かち与えることが善の特質に属しているからである】(P.213)(山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の哲学』)。

 神さまは世界をつくられ、そして世界に神さまの善性を与えられた。だから世界は良きものであるのです。そして善というのは自ら善のままであるのではなく、善を広め、他の物と分かち合うという性質があるので、善はどんどんと世界に広がっていくのだと、トマス・アクィナスは言います。『世界は善に満ちている』わけです。なんとも幸せな気持ちになります。そこにも、ここにも、善が満ちあふれているのです。私たちは良き物を分かち合わずにはいられない神さまが作られた世界の中に生きています。そして善は世界に満ちあふれていく。私たちもまたそのためにつくられています。私たちは世界を治めておられる神さまの権威の下に生きているのです。

 イエスさまは自分の僕の病をいやしてほしいと願い出た百人隊長の願いをかなえられました。イエスさまは、「わたしは権威の下にある者だ」と言った百人隊長の信仰を誉められ、私たちが神さまの権威の下に生きていることをしっかりと受けとめるようにと願っておられます。私たちはだれのもとにいきているのか。私たちの中心軸はなんであるのか。私たちはだれにより頼んで生きているのか。そのことをしっかりとこころにとめることをしなければならないと、イエスさまは私たちに言っておられます。

 私たちは「神さまの権威の下に生きている」と言える者でありたいと思います。ついつい神さまのことを忘れてしまって、自分勝手なことばかりしてしまう、弱い私たちです。神さまから離れ、自分のことばかりに関心がいってしまう、私たちです。しかし神さまが私たちを愛し、私たちを導いてくださっていることを思い起こしたいと思います。


2021年7月11日

2021年7月11日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

  「神の御心を行う者になる」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 7:15ー29節

 ルーサー・バーバンクは『種の起源』で有名なイギリスの生物学者ダーヴィンが書いた『人間のそだてている動植物の変化』という本に感銘を受け、ジャガイモを種から育てて、たくさん収穫ができて、料理しやすく、保存もきく新しいジャガイモをつくりだそうとします。そうしてできたのが、「バーバンク・ジャガイモ」です。このジャガイモは、アメリカで爆発的に広まりました。のちに、このバーバンク・ジャガイモはアイルランドで起こった飢饉のときに、飢饉から人々を救うことになりました。(板倉聖宣著、楠原義一画『ジャガイモの花と実』、福音館書店)。

 ルーサー・バーバンクの話を読みながら、「わたしは努力や工夫や向上心が足りんなあ」と思わされました。わたしはすぐにあきらめてしまって、能力のなさや才能のなさを神さまに嘆くわけです。「主よ、主よ」と言いながら、じつは神さまを頼っているようで、ただ自分が努力をしていないだけではないかと思わされました。

 イエスさまはなかなかきびしいことを言われます。イエスさまは「良い実を結ぶ」ことにこだわっておられます。「わたしの天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」と言われます。いくら敬虔なふりをして、「主よ、主よ」と言っていてもだめだ。たとえ、御名によって奇跡を行っていたとしても、それが人から誉められるためであったり、人からすばらしい人だと認められるためにやっているのであれば、それはだめだと、イエスさまは言われました。

 使徒パウロは、「キリスト者というのはあきらめない人のことだ」と、コリントの信徒への手紙(二)4章8−10節でこう言っています「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。使徒パウロは、イエスの死を体にまとい、イエスさまの御言葉を土台として、その生涯を歩みました。

 あきらめたり、嘆いたり、弱さを抱える私たちです。しかし私たちはイエスさまの御言葉という確かな土台に立っています。そのことを覚えて、神の御心を行う者になりたいと思います。私たちのできる業は小さな業でしかないかも知れません。しかしそれでも、一つずつでも小さなことでも、神の御心を行う者でありたいと思います。