2022年10月14日金曜日

2022年10月9日

 2022年10月9日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

 「自分の愚かさを知る」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 14:26-42節

 わたしのゼミの先生でした野本真也先生は、私たちを教会に送り出す時に、「あなたたちのことは信じていないけれど、あなたたちを教会に送り出す神さまのことを信じている」と言われました。新島襄は卒業生の前途を祝して、Mysterious Hand guide you!と言いました。神さまの不思議な御手があなたを導いてくれる。あなたは大した者ではないかも知れないけれども、神さまの不思議な御手があなたを守り導いてくださる。

 イエスさまのお弟子さんたちも、聖書を読む限りにおいては、そんなに大した人ではありませんでした。よく失敗もしますし、イエスさまから怒られることもあります。弟子たちは絶対にイエスさまを裏切ることはないと言いました。しかし弟子たちはイエスさまの十字架に際して逃げ出してしまうことになります。またゲッセマネでイエスさまから、「目を覚まして祈っていなさい」と言われても、みんな眠り込んでしまいました。

 弟子たちは愚かです。自分が愚か者であることに気づいていないのです。自分がだめな人間であることに気づいていないのです。わたしは愚か者でないと信じているので、イエスさまのことを裏切らないと言うのです。愚かな弟子たちは、イエスさまの小さな願いを聞くことができないのです。「目を覚ましていなさい」と言われても、弟子たちは目を覚ましていることができないのです。

 信仰は自分の愚かさを認めるところから始まります。イエスさまを裏切ることなく、イエスさまと一緒に死んでいくすばらしい人であれば、イエスさまを信じる必要はありません。イエスさまにより頼んで生きていく必要もないだろうと思います。イエスさまの小さな願いをきくことができず、眠り込んでしまう愚かな弟子たちだからこそ、イエスさまを信じる必要があるわけです。イエスさまのことを三度知らないと言う弟子たちだからこそ、神さまにより頼んで生きていく必要があるわけです。

 自分勝手な私たちをイエスさまは知ってくださり、私たちのことを愛してくださいます。わたしは「自分のことは信用ならない」と思いますが、しかしわたしを愛してくださる神さまを信じています。神さまは皆様、お一人お一人を愛してくださり、悲しい時もさびしい時も共にいてくださり、皆様のひと足ひと足を守ってくださっています。愛の神さまがおられます。神さまにすべてをお委ねして歩んでいきましょう。


2022年10月8日土曜日

2022年10月2日

 2022年10月2日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

 「涙の食事〜裏切る人と共に」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 14:10-25 節


 『現代ウクライナ短編集』(群像社)のなかに、「未亡人」(ワシーリ・ハーボル著)という短編小説があります。村長が若い未亡人のところを訪ねていくと、そこにいたのは自分の息子だったという、なんともなさけない話です。どの国に住んでいる人たちも、色々なさけないことを抱えながら生きているのだと思いました。

 イエスさまは食事の際に、弟子たちが驚くような話を始めます。こうしていま食事をしているあなたたちの中のひとりが、わたしを裏切ろうとしている。弟子たちは驚きます。そして「まさかわたしのことでは」と口々に言い始めます。イエスさまは「いま、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がわたしを裏切るのだ」。そして「わたしを裏切るその人は不幸だ」と言われました。

 「イスカリオテのユダ、あなたがわたしを裏切ろうとしている」と言えば、すっきりして言いような気がするわけです。しかしイエスさまがイスカリオテのユダを名指しで、「イスカリオテのユダ、あなたがわたしを裏切ろうとしている」とは言われませんでした。イスカリオテのユダに対するイエスさまの愛があるわけです。

 最後の晩餐は、涙の食事であるのです。イエスさまは裏切る者とともに食事をされ、そして裏切る者のために嘆かれ、そして裏切る者のために祈られたのです。最後の晩餐は聖餐式のひな形であると言われます。そういう意味では聖餐式というのは、私たちがイエスさまを裏切る者であり、罪深い者であり、いい加減な者であることを思い起こす儀式であるということです。そしてイエスさまを裏切る罪深い私たちが、イエスさまの憐れみの中に生かされていることを、感謝をもって受けとめるということです。

 聖餐に預かるということは、クリスチャンになった特権として聖餐に預かるということではありません。私たちがイエスさまの憐れみの中に生かされているということを受けとめるということです。私たちは依然として、こころもとない者であり、弱くいい加減な者です。神さまの憐れみなしには生きていくことのできない者です。

 しかしそうした私たちは憐れみ、導いてくださる神さまが、私たちにはおられます。神さまの深い愛に感謝して、神さまの民として、新しい一週間の歩みをはじめたいと思います。

2022年10月1日土曜日

2022年9月25日

 2022年9月25日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

 「初めて手にした十字架」 平松譲二牧師

    ヨハネによる福音書 20:24-29節

◆ 復活の出来事から1週間、ようやくトマスが弟子たちとの交わりを再開したその時に、復活のイエスが現れました。そして、トマスに「あなたの指をここに当てて手をみなさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と語られました。トマスは、復活のイエスとの直接出会った驚きと喜び、また恐れを持って、「私の主、私の神よ」と、思わず叫び、告白したのでした。しかし、トマスを責めることはできません。私たちも実体験としてイエスの十字架と復活を目の当たりにしていません。十字架と復活の出来事を理解しているとしても、そのことをどのように理解し、私たちの信仰につなげていくのかを誰しも悩んだ経験があります。

◆ 今年の夏、妻と二人で南ドイツのオーバーアマガウを訪れました。オーバーアマガウは約400年前から10年に一度、村あげてイエス・キリストの受難劇を開催する人口約5400人の小さな村です。たくさんの村人が役者、オーケストラ、制作などの役割を担いながらこの受難劇にかかわり、約半年間(5月から10月)の受難劇を作り上げていきます。イエスの受難のシーン、まさに弟子の裏切り、イエスの逮捕、真夜中の裁判、ゴルゴタへの道、十字架上の受難などが、聖書の記述に沿った形でとてもリアルに描かれていました。思わず目を背けたくなるシーンもあり、様々な思いと共に約5時間の超大作を鑑賞させていただきました。

◆ この受難劇を通して、やはり私たちの信仰の原点はイエスの受難と復活にあるのだということをあらためて教えられました。現代を生きる私たちは今も、戦争や貧困、病気や疫病などの問題に直面しています。人類はそれらの問題とどのように向き合い続ければよいのでしょうか。その答えは、十字架に向かうイエスの語る言葉にすべて入っているのではないでしょうか。そして、復活のイエスが弟子のトマスに語られた、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである。」という言葉に、復活を信じる私たちの信仰の原点があります。

◆ 受難劇を鑑賞させていただいた次の日、劇場のすぐ裏の木彫り職人さん工芸店でこの小さな十字架を購入させていただきました。受難劇で使われた十字架の縮小版を木彫りされたものですが、息を引き取られたイエスが十字架から降ろされた後、イエスが身に付けていた白い布が十字架にかけられたものを再現されています。私自身初めて手にした十字架なのですが、この十字架を見るたびに、キリストの十字架と復活の意味を覚えたいと願っています。


2022年9月30日金曜日

2022年9月18日

 2022年9月18日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

 「イエスさまは私たちを見ていてくださる」 

              小笠原純牧師

   マルコによる福音書 12:35-44節


 ことしは日中国交正常化50周年の年です。2202年9月29日がその日です。内山完造の『花甲録 日中友好の架け橋』(平凡社)を読んでいました。内山完造は中国の評論家であり小説家である魯迅を、いろいろな面で助けた人です。内山完造は京都教会で洗礼を受けたクリスチャンでした。花甲録という自伝の最後に、内山完造は讃美歌を引用して、自分の歩みを振り返っています。「ほむべきかな主のみなこそ 今日まで旅路を守り給えり」。讃美歌1ー534番の歌詞です。

 神さまが私たちの生涯を守ってくださっている。神さまが私たちに良いものを備えてくださる。私たちが天に召されるときも、神さまが私たちと共にいてくださる。神さまをほめたたえて、私たちは歩んでいく。そういう讃美歌です。いつも私たちを見守り、私たちを祝福してくださる方がおられることを、私たちもこころに留めて歩んでいきたいと思います。

 イエスさまは、救い主がダビデ王のような偉い人から出てくるというような考え方がお嫌いでした。「良い家柄ですね」とか「えらい人がなんとかしてくれるんじゃないか」という考え方が、イエスさまはお嫌いでした。。またイエスさまはえらそうにする人たちのことがお好きではありませんでした。律法学者たちは周りの人たちが、自分たちのことを偉い人として接してくれることを望みました。

 世の中はお金持ちや律法学者たちのように、力のある人たちに目を向けがちです。どれだけ稼いでいるのかを示す長者番付のようなものあったりします。自分の力を誇示するために、律法学者たちのように長い服を着て歩いて回ったりする人たちがいます。上席に誰が座っているか、上座に誰が座っているかというような順位付けが気になるという社会であったりします。力ある人が注目をされるという世の中です。しかしそうした社会の中にあって、イエスさまは貧しいやもめを見ておられました。

 貧しいやもめを見ておられたイエスさまは、私たちのことも見てくださっています。私たちの悲しみや私たちの苦しみ、私たちの小さな努力を、イエスさまは見てくださっています。私たちの小さな良き業を、イエスさまは見てくださっています。私たちはイエスさまのまなざしのなかで生きています。

 神さまのお守りのなか、私たちはすこやかに年を重ねていきたいと思います。


2022年9月16日金曜日

2022年9月11日

 2022年9月11日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

 「轍(わだち)のように」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 12:28-34節

 大漢和辞典を編纂した諸橋轍次の名前の「轍」は「わだち」という意味です。父親の安平は、中国北宋の文豪蘇轍にあやかって、息子の名前を轍次としました。だれも「これはすばらしいわだちですねえ。りっぱなわだちですねえ」と誉める人はいません。しかしいい働きをしています。そのように謙虚な歩みをしてほしいという思いを諸橋轍次の父安平はもっていました。

 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」という律法学者の問いに対して、イエスさまは大切なことは、「神さまを愛すること」、そして「隣人を愛すること」だと言われました。イエスさまは二つの掟が一つだと言われます。イエスさまの時代のファリサイ派や律法学者たちは、どちらかというと一生懸命に神さまを愛していたわけです。そして神さまを愛するがゆえに、人を裁いていました。神さまが与えてくださった律法を守ることができない人間は罪人だから裁かなければならないと思っていました。神さまを愛しすぎると、人を裁きたくなります。いまの世の中でも宗教的な原理主義者は神さまのゆえに人を裁こうとします。しかしイエスさまは罪人を愛され、そして神さまから愛されている人として、その人の隣人になられました。神を愛し、隣人を愛するということは決して切り離すことができないことなのです。

 信じて生きるということは、神さまの前に謙虚な思いになって生きるということです。私たちは自分の名誉であるとか地位であるとか、財産であるとか、この世で生活をしていると、そうしたもののことが気になることがあります。神さまの思いではなく、自分の思いが先に立ってしまうということもあります。自分が誉められたり、たたえられたりすることに気が向いてしまうこともあります。そして神さまの前に謙虚な思いであることを忘れてしまうことがあります。

 復活のイエス・キリストと出会った弟子たちは、イエスさまが歩まれた道を歩み始めます。それはあたかもイエスさまがその生涯を通して作られた「わだち」を歩んでいくかのようでした。イエスさまが残してくださった、神さまへと続くわだちを、弟子たちはそれることなく歩んでいったのでした。イエスさまがつくられたわだちは、地位や名誉に続く道ではありません。それは人から見れば、愚かな道であるかもしれません。しかしその道は、神さまへと向かう確かな道であるのです。私たちもまた、そのわだちを歩んでいきます。人は見てくれていなくても、神さまは見て下さっています。謙虚に自分らしく生きましょう。神さまは私たちの歩みを祝福してくださっています。


2022年9月10日土曜日

2022年9月4日

 2022年9月4日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

 「なぐらない。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 12:1-12節

 今年の9月1日は関東大震災が起こってから、99年の年でした。関東大震災のときに、日本で朝鮮人に対する虐殺が行なわれたと言われています。私たちの社会は暴力的な社会なのではないかと思え、怖くなります。いまなお、スポーツや学校という場に、意外に暴力というものが根強く残っているというようなことがあります。

 「ぶどう園と農夫のたとえ」は、どうしようもなく暴力的な話です。キリスト教の中では一般的に次のように解釈がされていました。ぶどう園の主人は神さまです。そしてぶどう園の農夫たちは、イスラエルの指導者たちです。そしてぶどう園に遣わされる僕は、預言者たちです。イスラエルの指導者たちは、神さまから遣わされる預言者たちの言うことを聞かず、をひどい目にあわせたり、また殺してしまったりします。そして最後に送られるのが、ぶどう園の主人の息子、すなわち神さまの御子イエスさまです。しかし神さまの御子であるイエスさまもまた、イスラエルの指導者たちによって殺されてしまいます。イエスさまは十字架につけられて殺されてしまいます。しかし神さまはイスラエルの指導者たちが捨てたイエスさまを隅の親石として用いられます。イエスさまが人々の罪をあがなってくださり、人々は神さまによって赦されるのです。

 イエスさまは暴力的なたとえを話されたわけですが、しかしイエスさまはそうした暴力的な社会の中にあって、暴力的な歩みを越えて、神さまの愛のうちを歩むことの大切さを、私たちに教えてくださいました。イエスさまはそのことをとくに、イエスさまの十字架と復活ということによって、私たちに示してくださいました。人々からののしられ、辱めをうけられ、イエスさまは十字架につけられました。しかしイエスさまは暴力で物事を解決することをなさいませんでした。

 私たちは神さまの愛のうちに生かされています。その愛を受けとめ、私たち自身が暴力的な解決を行なうことから避けて歩んでいきたいと思います。私たちの周りの小さな社会は、世界の有り様に結びついています。私たちが「なぐらない」という思いをもって生きていく時に、私たちの世界も「なぐらない」という社会になっていくのです。イエスさまの愛を知っている者として、愛でもってこの世を治めることを祈りつつ歩んでいきたいと思います。


2022年9月3日土曜日

2022年8月28日

 2022年8月28日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

 「自分の十字架を背負って」 桜井希牧師

   マルコによる福音書 8:27-35節

 最初の受難予告でイエスは弟子たちに、自分が多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって殺され、三日の後に復活することを告げます。イエスは最後まで支配される人たち、不当な苦しみを受け、無念のうちに死んでいく人たち、言わば殺される側の人々と共に生きる道を選んだのでした。けれども弟子たちは、イエスが逮捕されるや否や、彼を見捨てて逃げ去りました。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったペトロも、大祭司の屋敷の中庭で「この人は、あの人たちの仲間です」と言われた時、彼は繰り返し「そんな人は知らない」と言ってその場から逃げ出しました。その姿は、私自身のこれまでの罪の数々を、どれほど人を裏切り、見殺しにしてきたかをいやおうなく思い出させます。

 受難物語は私たち自身の罪があらわにし、忘れようとしていたその罪を思い起こさせます。その度に私たちは悔い改めへと導かれながら、なおその罪と共に生きていくことが求められているように思います。罪を忘れることは神を忘れることになるのではないか。そうではなく私たちは、自分の弱さを自覚しているからこそ相手の弱さを受け入れることができ、自分が苦しいからこそ相手の苦しみに共感できるのではないでしょうか。罪は忘れるべきものではなく、自分と他者を和解させ、新しい出会いと生き方を示してくれる。これが赦されて生きるということではないかと思うのです。

 イエスはペトロに対する叱責に続けて、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言います。それは「今度はあなたの番なのだ」という励ましの言葉のように、私には思えます。イエスが生きたように、今度はあなたが生きていく番なのだと。そのようにして歩み出す時、自分の罪深さや弱さは相手を思いやる優しさとなり、相手の苦しみを共感する力へと変えられていく。そして、そのように生きることが自分にとって担うことのできる使命だと、私は信じたいのです。たとえその行く先が十字架の死であったとしても、「大丈夫、わたしはここにいる」と言って共に歩むイエスを信じて、これからも生きていきたいと思います。