2019年9月8日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨
「自分のこととして考えてみようよ」 小笠原純牧師
ルカによる福音書 14:1~6節
わたしは昔、「病院ってお見舞いに行くところ」と思っていました。伝道師、2年目、わたしは甲状腺機能亢進症という病気で入院することになりました。わたしは自分が入院して、はじめて、病院って、だれしも病気になり、自分もまた入院するところであることに気づきました。なんかとても高慢な思いになっていたことに気づかされました。
安息日に人や牛が井戸に落ちたときどうすればよいのかということについては、ユダヤの法律のなかで、いくつもの凡例があるそうです。イエスさまは「自分の息子か牛が井戸に落ちたら」と言っておられます。たんに人が井戸に落ちたときとか、牛が井戸に落ちたときの話をしているのではないということです。「あなた」の息子、「あなた」の牛が落ちたら、あなたはどうするのだ。安息日だからといって助けないのか。一般的な話のときは、自分の説を披露して、わたしの解釈はこうだというだろうけれど、「自分」の息子や牛が落ちたときは、やっぱり安息日であっても助けるだろうと、イエスさまは言われました。
イエスさまは「自分の身になって考えようよ」と言われました。イエスさまは律法というのは、「人にしてもらいたいと思うことを、あなたが人にしてあげることだ」(マタイ福音書7章12節)と言われました。「これしてあげたら、あの人喜ぶだろうなあ」とか「あれしてあげたら、あの人うれしいだろうなあ」。そうした優しさの中にあるのが、律法に従って生きていくということだよ。律法に書いてあるから、これをしなければならない。やっていないあの人は律法に違反している悪い人だというようなのは、律法の正しい用い方ではないよ。イエスさまはそのように言われました。
私たちもファリサイ派の人々や律法の専門家のように、ときに冷たい考え方や行ないをしてしまうことがあります。でもやっぱり私たちのこころの中にある優しさを大切にしたいと思います。
イエスさまは私たちを愛して、私たちのために十字架についてくださいました。私たちはそのイエスさまの愛に包まれて生かされています。神さまは私たちに良き賜物を与えてくださり、その賜物いかして、世の人々と共に歩みなさいと言っておられます。神さまの愛に満たされて、私たちの中にある優しい気持ちを大切にして、思いやりをもって歩んでいきましょう。
2019年9月16日月曜日
2019年9月10日火曜日
2019年9月1日
2019年9月1日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨
「愛のない世界に生きたいですか」 小笠原純牧師
ルカによる福音書 13:10~17節
法律で罰せられるか、罰せられないかということが唯一の基準であり、倫理的なことはあまり関係がないかのような、愛のない振る舞いをする政治家が増えてきたような気がします。わたしはどうしてそんな感じになったのかなあと思うときに、世の中自体が、神さまのことを忘れてしまっているからではないかと思います。そしてもっともっと神さまのことを宣べ伝えていかなければならないと、牧師としてわたしは思います。
イエスさまは安息日に18年間苦しんでいた女性を癒されました。会堂長は「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と言って、イエスさまを非難しました。しかしイエスさまは会堂長を偽善者とののしり、反論しました。
安息日はもともと毎日働かざるを得ない人々が、一日、休むことができるための日として定められたものでした(出エジプト記20章8−10節)。安息日は神さまが与えてくださった愛に満ちた休息の日でした。だから神さまが喜ばれるようなことをしてあげたら良いのだ。18年間病気で苦しんでいた人をいやしてあげるのは、神さまが喜ばれることであり、安息日にふさわしいことだ。会堂長の言葉には、それは合理性があるかもしれないけれども愛がないと、イエスさまは言われました。
わたしはものごとを合理的に考えることがどちらかと言えば好きで、そしてそれゆえに自分のなかに愛が少ないということを感じることが多いです。ですからわたし自身もこの会堂長のように考えがちだなあと思わされます。「愛がない」のです。「愛がない」。しかし私たちは愛のない世の中には生きていけないのです。
ただこの会堂長たちはとてもえらいなあと、わたしは思います。イエスさまから「あなたたちには愛がないのだ」と言われ、そのことに対して会堂長たちは皆そのことを恥じました。彼らは恥じ入る素直さを持っていました。
讃美歌21の493番は「いつくしみ深い」という賛美歌です。私たちのイエスさまは「いつくしみ深い」方です。深い愛でもって、私たちを包んでくださる方です。私たちはイエスさまの愛によって生かされています。私たちはイエスさまが教えてくださった愛のある世界に生きたいと思います。私たちのこの世界が神さまの愛に満ちあふれた世界となりますようにと祈りつつ歩みましょう。
「愛のない世界に生きたいですか」 小笠原純牧師
ルカによる福音書 13:10~17節
法律で罰せられるか、罰せられないかということが唯一の基準であり、倫理的なことはあまり関係がないかのような、愛のない振る舞いをする政治家が増えてきたような気がします。わたしはどうしてそんな感じになったのかなあと思うときに、世の中自体が、神さまのことを忘れてしまっているからではないかと思います。そしてもっともっと神さまのことを宣べ伝えていかなければならないと、牧師としてわたしは思います。
イエスさまは安息日に18年間苦しんでいた女性を癒されました。会堂長は「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と言って、イエスさまを非難しました。しかしイエスさまは会堂長を偽善者とののしり、反論しました。
安息日はもともと毎日働かざるを得ない人々が、一日、休むことができるための日として定められたものでした(出エジプト記20章8−10節)。安息日は神さまが与えてくださった愛に満ちた休息の日でした。だから神さまが喜ばれるようなことをしてあげたら良いのだ。18年間病気で苦しんでいた人をいやしてあげるのは、神さまが喜ばれることであり、安息日にふさわしいことだ。会堂長の言葉には、それは合理性があるかもしれないけれども愛がないと、イエスさまは言われました。
わたしはものごとを合理的に考えることがどちらかと言えば好きで、そしてそれゆえに自分のなかに愛が少ないということを感じることが多いです。ですからわたし自身もこの会堂長のように考えがちだなあと思わされます。「愛がない」のです。「愛がない」。しかし私たちは愛のない世の中には生きていけないのです。
ただこの会堂長たちはとてもえらいなあと、わたしは思います。イエスさまから「あなたたちには愛がないのだ」と言われ、そのことに対して会堂長たちは皆そのことを恥じました。彼らは恥じ入る素直さを持っていました。
讃美歌21の493番は「いつくしみ深い」という賛美歌です。私たちのイエスさまは「いつくしみ深い」方です。深い愛でもって、私たちを包んでくださる方です。私たちはイエスさまの愛によって生かされています。私たちはイエスさまが教えてくださった愛のある世界に生きたいと思います。私たちのこの世界が神さまの愛に満ちあふれた世界となりますようにと祈りつつ歩みましょう。
2019年8月25日
2019年8月25日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨
「救われる人と」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 12:35~48節
この箇所では、自分の職務をきっちりと守り主人を待つ僕のたとえ話などを通して、終末が訪れるまでにどのように生活するべきなのか語られています。当時のイスラエルで婚宴とは、現代とは違い数日にわたって行われるものでした。ですので、婚宴に出かけた主人が何時・何日に帰ってくるかわからないものでありました。またイエスは「主人が僕に食事の世話をする」と終末を説明します。私たちは終末をどのように捉えるべきなのでしょうか。
当時のパレスチナは、ローマ帝国による厳しい支配下にありました。苦しい状況の中で、ローマ帝国ではなく「神による支配」を多くの人たちが求めました。しかしその考えは次第に、宗教的敬虔さを求めることとなり、聖書の決まり事を守ることだけが重要視され、ユダヤ人は「義人」と「罪人」へと分けられていきました。神の支配を求めながらも、宗教的敬虔さという思い込みにより、当たり前のように差別は正当化されたのです。イエスの活動はそのような「終末を待ち望む社会」でないがしろにされた〈いのち〉に向き合う、「見せかけの宗教的敬虔さゆえに〈いのち〉を損なっているあり方をみいだした」ものであったのかもしれません(上村静、2011年)。
私たちも神が支配する平和な世の中を求めながら、見せかけの価値観を抜け出せていないのかもしれません。「食べへんかったら大きいなれへんで!」と小さい時によく言われました。この歳になって、同じことを教会で子どもたちに言っている自分に気づきました。そんな中、「ちお・おは」という言葉を先日知りました。これは「ちいさい・おおきい」、「おそい・はやい」を縮めた言葉だそうです。「大きいことはいいこと」、そんな考えは昔からあるように思います。しかし、小さいこともいいことです。スポーツでは長所になることがあります。「大きいことはいいことだ」という価値観が様々な差別に関係しているのではないでしょうか(山田真「(ち・お)ってなんだ?」)。
この聖書箇所で、ペトロがイエスに問うています。ペトロもまたイエスに従っていながら、求めていた救い主のイメージは当時の世間で流布してた力強いメシア像でした。そんな見せかけの価値観は、イエスの死を前に、イエスとの関係性を偽りながら否定し、涙の中で打ち砕かれていきました。終末とは、私たちの見せかけの価値観や二元論とは違う、人々を「救われる人」と「そうでない人」に分けてしまうような価値観ではない、と聖書は語っているのではないでしょうか。
ルカによる福音書 12:35~48節
この箇所では、自分の職務をきっちりと守り主人を待つ僕のたとえ話などを通して、終末が訪れるまでにどのように生活するべきなのか語られています。当時のイスラエルで婚宴とは、現代とは違い数日にわたって行われるものでした。ですので、婚宴に出かけた主人が何時・何日に帰ってくるかわからないものでありました。またイエスは「主人が僕に食事の世話をする」と終末を説明します。私たちは終末をどのように捉えるべきなのでしょうか。
当時のパレスチナは、ローマ帝国による厳しい支配下にありました。苦しい状況の中で、ローマ帝国ではなく「神による支配」を多くの人たちが求めました。しかしその考えは次第に、宗教的敬虔さを求めることとなり、聖書の決まり事を守ることだけが重要視され、ユダヤ人は「義人」と「罪人」へと分けられていきました。神の支配を求めながらも、宗教的敬虔さという思い込みにより、当たり前のように差別は正当化されたのです。イエスの活動はそのような「終末を待ち望む社会」でないがしろにされた〈いのち〉に向き合う、「見せかけの宗教的敬虔さゆえに〈いのち〉を損なっているあり方をみいだした」ものであったのかもしれません(上村静、2011年)。
私たちも神が支配する平和な世の中を求めながら、見せかけの価値観を抜け出せていないのかもしれません。「食べへんかったら大きいなれへんで!」と小さい時によく言われました。この歳になって、同じことを教会で子どもたちに言っている自分に気づきました。そんな中、「ちお・おは」という言葉を先日知りました。これは「ちいさい・おおきい」、「おそい・はやい」を縮めた言葉だそうです。「大きいことはいいこと」、そんな考えは昔からあるように思います。しかし、小さいこともいいことです。スポーツでは長所になることがあります。「大きいことはいいことだ」という価値観が様々な差別に関係しているのではないでしょうか(山田真「(ち・お)ってなんだ?」)。
この聖書箇所で、ペトロがイエスに問うています。ペトロもまたイエスに従っていながら、求めていた救い主のイメージは当時の世間で流布してた力強いメシア像でした。そんな見せかけの価値観は、イエスの死を前に、イエスとの関係性を偽りながら否定し、涙の中で打ち砕かれていきました。終末とは、私たちの見せかけの価値観や二元論とは違う、人々を「救われる人」と「そうでない人」に分けてしまうような価値観ではない、と聖書は語っているのではないでしょうか。
2019年8月27日火曜日
2019年8月18日
2019年8月18日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨
「世界の中心で「自分は正しい」と叫びたい私」 小笠原純牧師
ルカによる福音書 10:25~42節
大阪教区の総会議長をしていたとき、こちらの人からも、あちらの人からも、「それは違う」と言われることがよくありました。あんまり「それは違う」と言われ続けると、わたし自身も疲れてきて、「自分は正しい」と叫びたい気持ちに襲われるときがありました。世界の中心で「自分は正しい」と叫びたいときというのが、私たちにはあります。
私たちにとって大切なことは何なのか。永遠の命を得るためには何をしなければならないのか。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すること。また、隣人を自分のように愛しなさい』。そして、いろいろなわずらいを超えて、ただイエスさまが語られる神さまのことを聞くこと。そのように聖書は、私たちに教えてくれています。
そのように教えられていることはわかるわけですが、わたしはこの「善いサマリア人」「マルタとマリア」という聖書の箇所を読みながら、自分を正当化しようとした律法の専門家の気持ち、またイエスさまに対して「何ともお思いになりませんか」となじったマルタの気持ちがとても気になりました。
律法の専門家やマルタはその後、どうしたでしょうか。世界の中心で「自分は正しい」と叫んだあと、部屋に帰って落ち着いたときに、彼女たちはどうしたでしょうか。「やっぱりイエスさまは大切なことを、わたしに必要なことを教えてくださった」と思い直しただろうと、わたしは思います。そして正しくないわたしを招いてくださる神さまがおられることに気づいただろうと、わたしは思います。
心が弱くなって、イエスさまの言われることを素直に受けとめることができないときが、私たちにはあります。「そんなこと言われたって、イエスさま、・・・・。わたしだけが悪いって言うのですか・・・」。しかし落ち着いて、祈りつつ歩むときに、イエスさまは私たちに永遠の命に通じる道を示してくださっていることに気づかされます。
正しくないわたしを招いてくださる神さまがおられます。「ぜったいわたしが正しい」との思いにとらわれて、高慢な思いになってしまうわたしを諭してくださる神さまがおられます。罪深い私たちを赦し、私たちに慰めを与えてくださる神さまがおられます。神さまは私たちを愛してくださり、私たちに永遠の命を備えてくださいます。
「世界の中心で「自分は正しい」と叫びたい私」 小笠原純牧師
ルカによる福音書 10:25~42節
大阪教区の総会議長をしていたとき、こちらの人からも、あちらの人からも、「それは違う」と言われることがよくありました。あんまり「それは違う」と言われ続けると、わたし自身も疲れてきて、「自分は正しい」と叫びたい気持ちに襲われるときがありました。世界の中心で「自分は正しい」と叫びたいときというのが、私たちにはあります。
私たちにとって大切なことは何なのか。永遠の命を得るためには何をしなければならないのか。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すること。また、隣人を自分のように愛しなさい』。そして、いろいろなわずらいを超えて、ただイエスさまが語られる神さまのことを聞くこと。そのように聖書は、私たちに教えてくれています。
そのように教えられていることはわかるわけですが、わたしはこの「善いサマリア人」「マルタとマリア」という聖書の箇所を読みながら、自分を正当化しようとした律法の専門家の気持ち、またイエスさまに対して「何ともお思いになりませんか」となじったマルタの気持ちがとても気になりました。
律法の専門家やマルタはその後、どうしたでしょうか。世界の中心で「自分は正しい」と叫んだあと、部屋に帰って落ち着いたときに、彼女たちはどうしたでしょうか。「やっぱりイエスさまは大切なことを、わたしに必要なことを教えてくださった」と思い直しただろうと、わたしは思います。そして正しくないわたしを招いてくださる神さまがおられることに気づいただろうと、わたしは思います。
心が弱くなって、イエスさまの言われることを素直に受けとめることができないときが、私たちにはあります。「そんなこと言われたって、イエスさま、・・・・。わたしだけが悪いって言うのですか・・・」。しかし落ち着いて、祈りつつ歩むときに、イエスさまは私たちに永遠の命に通じる道を示してくださっていることに気づかされます。
正しくないわたしを招いてくださる神さまがおられます。「ぜったいわたしが正しい」との思いにとらわれて、高慢な思いになってしまうわたしを諭してくださる神さまがおられます。罪深い私たちを赦し、私たちに慰めを与えてくださる神さまがおられます。神さまは私たちを愛してくださり、私たちに永遠の命を備えてくださいます。
2019年8月19日月曜日
2019年8月11日
2019年8月11日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨
「自分の弱さを受け入れる」 小笠原純牧師
ルカによる福音書 9:51~62節
ヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。わたしはヤコブやヨハネのようなちょっと調子に乗った言葉を聞くと、なんか「ああ、この人たち、わたしとおんなじやなあ」と、妙に安心してうれしくなります。ほんとにいいかげんで、お調子者で、どうしようもない弟子たちです。
イエスさまたちは、サマリアの人々からは歓迎されませんでした。ユダヤの人々はサマリアの人々を差別して、蔑んでいました。サマリアの人々もまたユダヤの人々をよく思っていないわけです。ですからユダヤの人であるイエスさまを歓迎しませんでした。サマリアの人々を蔑む気持ちが、ヤコブやヨハネにあったからでしょう。ヤコブやヨハネは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。それでイエスさまはヤコブとヨハネを、「戒められた」のでした。
イエスさまは「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という人には、「そんなこと言っても、わたしと一緒にきてもろくなことないよ」と言われます。しかしまた別の人に対しては、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われます。無理して気負ってイエスさまのところにやってきた人には、水をかけたのに、煮えきらない人に対しては、こんどは葉っぱをかけるのです。
人は自分の弱さを受け入れられないときに、自分に対しても、人に対しても「こうあらねばならない」という正しさを求めます。ほんとうに神さまにより頼むとき、神さまに罪ゆるされたと思えるとき、人は使徒パウロのように【自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません】(2コリント12章5節)と言えるのだと思います。神さまは私たちの弱いところに働いてくださるのです。
自分の弱さ、なさけなさ。ひきょうな自分、ずるい自分。それを強がったり、こうでなければならないという気持ちで、ごまかすのではなく、まず初めに自分の弱さを受け入れたいと思います。そして私たちの弱さを知った上で、招いてくださるイエスさまについていきましょう。私たちの弱いところに働いてくださる神さまに委ねて歩んでいきましょう。
「自分の弱さを受け入れる」 小笠原純牧師
ルカによる福音書 9:51~62節
ヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。わたしはヤコブやヨハネのようなちょっと調子に乗った言葉を聞くと、なんか「ああ、この人たち、わたしとおんなじやなあ」と、妙に安心してうれしくなります。ほんとにいいかげんで、お調子者で、どうしようもない弟子たちです。
イエスさまたちは、サマリアの人々からは歓迎されませんでした。ユダヤの人々はサマリアの人々を差別して、蔑んでいました。サマリアの人々もまたユダヤの人々をよく思っていないわけです。ですからユダヤの人であるイエスさまを歓迎しませんでした。サマリアの人々を蔑む気持ちが、ヤコブやヨハネにあったからでしょう。ヤコブやヨハネは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。それでイエスさまはヤコブとヨハネを、「戒められた」のでした。
イエスさまは「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という人には、「そんなこと言っても、わたしと一緒にきてもろくなことないよ」と言われます。しかしまた別の人に対しては、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われます。無理して気負ってイエスさまのところにやってきた人には、水をかけたのに、煮えきらない人に対しては、こんどは葉っぱをかけるのです。
人は自分の弱さを受け入れられないときに、自分に対しても、人に対しても「こうあらねばならない」という正しさを求めます。ほんとうに神さまにより頼むとき、神さまに罪ゆるされたと思えるとき、人は使徒パウロのように【自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません】(2コリント12章5節)と言えるのだと思います。神さまは私たちの弱いところに働いてくださるのです。
自分の弱さ、なさけなさ。ひきょうな自分、ずるい自分。それを強がったり、こうでなければならないという気持ちで、ごまかすのではなく、まず初めに自分の弱さを受け入れたいと思います。そして私たちの弱さを知った上で、招いてくださるイエスさまについていきましょう。私たちの弱いところに働いてくださる神さまに委ねて歩んでいきましょう。
2019年8月11日日曜日
2019年8月4日
2019年8月4日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨
「ちいさな者だけれど、平和を祈る。」 小笠原純牧師
ルカによる福音書 8:1~3節
私たちの平安教会が属しています日本基督教団は8月の第一主日を、平和聖日としています。あさっては、8月6日、74回目の広島原爆記念日を迎えます。
ドイツで行なわれた反ナチス運動に、「白バラ」というのがあります。ショル兄姉とその友人たちは、ナチスドイツに反対するビラをつくり大学などで蒔きました。そしてゲシュタポにつかまり、逮捕されて四日で、ギロチンで処刑をされました。「あの人たちは何も超人的なことを企てたのではないのです。・・・。ある単純なこと、つまり個人の権利と自由、各人の自由な個性の発達と自由な生活への権利とを、背負って立ったにすぎないのです。・・・。彼らの欲したことはみんなが、わたしもあなたも、人間的な世界に生きうるということだったのです」(『白バラは散らず ドイツの良心 ショル兄妹』、未来社)。ショル兄妹たちのその精神は引き継がれていきます。白バラは散らず、白バラは散らない。白バラは咲き続けるのです。小さな花であるかも知れないけれども、しかし白バラは咲き続ける。ショル兄妹たちはふつうの小さな人たちでしたが、しかしそのふつうの小さな人たちの良心が、この世界を支えています。
イエスさまの周りには、十二弟子たちと、そしてガリラヤから付いてきた女性たちがいました。イエスさまが十字架につけられたときも、そしてイエスさまがよみがえられたときも、女性たちはイエスさまのことを忘れることがありませんでした。女性たちは「自分の持ち物を出し合って」とあるように、自分たちのできる範囲のことを、誠実に行ないながら、イエスさまにお仕えしたのです。彼女たちは他人のものをもってくるのではなく、「自分の持ち物を出し合う」のです。もちろんそれでは足りないということもあったでしょう。それはそれで仕方のないことです。足りないことは神さまにお任せして、自分たちは自分の持ち物を出し合って、誠実に歩んでいったのです。マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナの名前は記されていますが、しかしそのほかの多くの女性たちの名は記されることはありません。それでもやはり誠実に、イエスさまにお仕えして歩んだのです。
私たちもまた小さな者ですが、多くの女性たちのように誠実に歩みたいと思います。74回目の広島原爆記念日を迎え、そして8月9日の長崎原爆記念日、8月15日の敗戦記念日を迎えます。神さまの平和を求めて、祈りつつ歩みたいと思います。
「ちいさな者だけれど、平和を祈る。」 小笠原純牧師
ルカによる福音書 8:1~3節
私たちの平安教会が属しています日本基督教団は8月の第一主日を、平和聖日としています。あさっては、8月6日、74回目の広島原爆記念日を迎えます。
ドイツで行なわれた反ナチス運動に、「白バラ」というのがあります。ショル兄姉とその友人たちは、ナチスドイツに反対するビラをつくり大学などで蒔きました。そしてゲシュタポにつかまり、逮捕されて四日で、ギロチンで処刑をされました。「あの人たちは何も超人的なことを企てたのではないのです。・・・。ある単純なこと、つまり個人の権利と自由、各人の自由な個性の発達と自由な生活への権利とを、背負って立ったにすぎないのです。・・・。彼らの欲したことはみんなが、わたしもあなたも、人間的な世界に生きうるということだったのです」(『白バラは散らず ドイツの良心 ショル兄妹』、未来社)。ショル兄妹たちのその精神は引き継がれていきます。白バラは散らず、白バラは散らない。白バラは咲き続けるのです。小さな花であるかも知れないけれども、しかし白バラは咲き続ける。ショル兄妹たちはふつうの小さな人たちでしたが、しかしそのふつうの小さな人たちの良心が、この世界を支えています。
イエスさまの周りには、十二弟子たちと、そしてガリラヤから付いてきた女性たちがいました。イエスさまが十字架につけられたときも、そしてイエスさまがよみがえられたときも、女性たちはイエスさまのことを忘れることがありませんでした。女性たちは「自分の持ち物を出し合って」とあるように、自分たちのできる範囲のことを、誠実に行ないながら、イエスさまにお仕えしたのです。彼女たちは他人のものをもってくるのではなく、「自分の持ち物を出し合う」のです。もちろんそれでは足りないということもあったでしょう。それはそれで仕方のないことです。足りないことは神さまにお任せして、自分たちは自分の持ち物を出し合って、誠実に歩んでいったのです。マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナの名前は記されていますが、しかしそのほかの多くの女性たちの名は記されることはありません。それでもやはり誠実に、イエスさまにお仕えして歩んだのです。
私たちもまた小さな者ですが、多くの女性たちのように誠実に歩みたいと思います。74回目の広島原爆記念日を迎え、そして8月9日の長崎原爆記念日、8月15日の敗戦記念日を迎えます。神さまの平和を求めて、祈りつつ歩みたいと思います。
2019年8月4日日曜日
2019年7月28日
2019年7月28日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨
「あなたの罪は赦された」 小笠原純牧師
ルカによる福音書 7:36~50節
田口ランディは「魂のコード」(「根を持つこと、翼をもつこと」、晶文社)というエッセーのなかで、自分のもつ弱さやずるさ、人としての冷たさを素直に書いています。
イエスさまがファリサイ派のシモンの家で食事をされた時、罪深い女と言われていた女性が、イエスさまの足もとに近寄り、泣きながらイエスさまの足に接吻して香油を塗りました。それをみてシモンは「この人が預言者なら、罪深い女が自分に振れていることが分かるはずだ」と思い、この人は大した人ではないと、心の中で決めつけました。
わたしは「高みの見物としてのキリスト教」というものと、「わたしが赦される出来事としてのキリスト教」ということがあると思います。「高みの見物としてのキリスト教」は、キリスト教がどうであるかとか、イエスさまがどうであるのかということに関心があてられています。ファリサイ派のシモンは「高みの見物としてのキリスト教です」。彼は自分が高みにいて、イエスさまに対する評価を下します。
もう一方の「わたしが赦される出来事としてのキリスト教」というのは、自分を救っていただきたいということ関心があてられています。罪深い女と言われていた女性は、「わたしが赦される出来事としてのキリスト教」です。この女性は自分の罪を悔いながら、イエスさまに救っていただきたいと思っていました。
イエスさまは「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われました。わたしは自分の心の冷たさが嫌いです。「この冷たい固まりに触れると、世界が音を立てて凍ってしまうのではないかと思える、私の中にあるこの冷たい凍った固まりをどうにかしてほしい」という思いをもっています。
イエスさまは罪深い女と言われていた女性に、「あなたの罪は赦された」と言われました。「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」を聞くと、ちょっと元気がなくなってしまうわたしですが、この「あなたの罪は赦された」という言葉には、大きな安らぎを感じます。この女性の罪を赦してくださった方は、わたしの罪をも赦してくださると思えるからです。
私たちの神さまは、私たちの罪を赦してくださる神さまです。私たちはこのことを謙虚に、感謝をもって受け入れるものでありたいと思います。
「あなたの罪は赦された」 小笠原純牧師
ルカによる福音書 7:36~50節
田口ランディは「魂のコード」(「根を持つこと、翼をもつこと」、晶文社)というエッセーのなかで、自分のもつ弱さやずるさ、人としての冷たさを素直に書いています。
イエスさまがファリサイ派のシモンの家で食事をされた時、罪深い女と言われていた女性が、イエスさまの足もとに近寄り、泣きながらイエスさまの足に接吻して香油を塗りました。それをみてシモンは「この人が預言者なら、罪深い女が自分に振れていることが分かるはずだ」と思い、この人は大した人ではないと、心の中で決めつけました。
わたしは「高みの見物としてのキリスト教」というものと、「わたしが赦される出来事としてのキリスト教」ということがあると思います。「高みの見物としてのキリスト教」は、キリスト教がどうであるかとか、イエスさまがどうであるのかということに関心があてられています。ファリサイ派のシモンは「高みの見物としてのキリスト教です」。彼は自分が高みにいて、イエスさまに対する評価を下します。
もう一方の「わたしが赦される出来事としてのキリスト教」というのは、自分を救っていただきたいということ関心があてられています。罪深い女と言われていた女性は、「わたしが赦される出来事としてのキリスト教」です。この女性は自分の罪を悔いながら、イエスさまに救っていただきたいと思っていました。
イエスさまは「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われました。わたしは自分の心の冷たさが嫌いです。「この冷たい固まりに触れると、世界が音を立てて凍ってしまうのではないかと思える、私の中にあるこの冷たい凍った固まりをどうにかしてほしい」という思いをもっています。
イエスさまは罪深い女と言われていた女性に、「あなたの罪は赦された」と言われました。「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」を聞くと、ちょっと元気がなくなってしまうわたしですが、この「あなたの罪は赦された」という言葉には、大きな安らぎを感じます。この女性の罪を赦してくださった方は、わたしの罪をも赦してくださると思えるからです。
私たちの神さまは、私たちの罪を赦してくださる神さまです。私たちはこのことを謙虚に、感謝をもって受け入れるものでありたいと思います。
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