2025年6月22日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨
「良き人として生きたい人の群れが流れとなって」小笠原純牧師
マタイによる福音書 3:1-6節
文化人類学者の松村圭一郎の『うしろめたさの人類学』という本を読んでいると、自分があたりまえのように考えていたことが、世界のどこででもあたりまえではないということを、いまさらながら気づかされました。エチオピアでは戸籍や住民票がないので、親はすぐに子どもに名前を付ける必要もない。家族が生まれた子どものことを、それぞれ好き勝手な名前で呼ぶこともあるそうです。
私たちは自分の周りのことだけをみて、自分の常識で判断をして、「もうだめだ」「世の中、どんどん悪くなっている」と悲観的にみてしまうことがあります。しかし私たちの常識を超えたところで、そうでもないということがあるかも知れないわけです。
洗礼者ヨハネはイエスさまが来られる前に、人々に悔い改めを迫った預言者です。洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野で人々に宣べ伝えていました。洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、多くの人々が洗礼者ヨハネのところに集まってきます。「こんな怖い人のところにいくのはいやだ」というふうに思うのではなく、神さまに向き合い、「わたしは悔い改めなければならない」と思い、怖い洗礼者ヨハネのところにやってくるのです。
神さまを求めていきたい。神さまに従って歩みたい。そのように素直に思う人々がいたのです。悔い改めの洗礼を受けるために、洗礼者ヨハネのところにやってくるわけですから、はじめからそのように思っていたというわけではないのです。神さまの御心に反して、自分の好きなように生きていたのです。「少々悪いことをしてもいいじゃないか。みんなやっていることだし、おれだけが悪いわけじゃない」。そうした思いをもって生きていたのです。しかし思い直して、やはり神さまを求めて生きていきたい。神さまに従って歩みたい。そのように思い直して、洗礼者ヨハネのところにやってきて、洗礼を受けて、自分の生き方を変えていった人々がいたのです。
私たちの世界には、私たちと同じように、争いではなく、愛にみちたわかちあいの世界に生きていきたいと思っている人たちがたくさんいます。「平和な世界になりますように」と、毎日祈っている人たちがたくさんいます。私たちもそうした人たちと同じように祈り続けていきたいと思います。そしてイエスさまが教えてくださった小さな愛の業に励みたいと思います。良き人として生きたい人の群れが流れとなって、私たちの世界が神さまの愛に満ちた世界となるようにとお祈りしたいと思います。