2025年8月15日金曜日

2025年8月10日

 2025年8月10日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

「罪人として招かれている」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 9:9-13節

 8月15日は80回目の敗戦記念日です。遠藤春子さんの「いのり」(『原爆詩集』、合同出版)という詩を読むと、いのちの力強さをいうことを思わされます。私たちの世界からなかなか戦争がなくなりません。しかしだからこそ、戦争のない平和な世界になりますようにという祈りを大切にしたいと思います。

 イエスさまは徴税人であるマタイを御自分の弟子とされました。そしてマタイの家でマタイの友人である徴税人や罪人と一緒に食事をされました。それを見たファリサイ派の人々が、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、イエスさまを非難しました。イエスさまは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と答えられました。

 イエスさまは神さまが望んでおられるのはいけにえではなくて憐れみであると言われました。神さまは罪人を憐れんでおられる。正しくあろうと思いながらも、正しく生きることができず、罪を犯しながら、神さまに憐れみを求めて生きている人々を、神さまはそのままにしておかれない。罪を犯し、自分に絶望し、涙を流しながら、心の中で神さまを求めて生きている人々を、神さまは憐れんでくださっている。だから「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 私たちは罪人として神さまの前に招かれています。私たちは悔い改める罪人として、神さまの前に招かれています。私たちは罪人として裁かれるために、神さまの前に招かれているのではありません。私たちは赦されるために、神さまの前に招かれています。私たちは神さまの憐れみを、神さまの愛を受けるために、神さまの前に招かれています。

 だからこそ、私たちは自分たちの罪ということについて、謙虚でありたいと思います。人がどうであるとか、他の国がどうであるというようなことではなく、私たちキリスト者は神さまの前に自分がどうであるのかということを、心に留める者でありたいと思います。こころを静かにして、自分の歩みを振り返りながら、私たちは神さまの御前に立つ者であることを、心に留めたいと思います。

 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。神さまは私たちを悔い改めに導いてくださり、私たちを祝福してくださいます。神さまの深い愛に、私たちの歩みをお委ねいたしましょう。


2025年8月8日金曜日

2025年8月3日

 2025年8月3日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

「許された者として生きている。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 5:43-48節

 41年ぶりに、この5月にフィリピンの首都のマニラにいきました。戦後80年になりますから、フィリピンを侵略した日本人というような目で見られていると感じるようなことはありませんでした。それでもフィリピンの国立博物館に行きますと、フィリピンの歴史のなかで、日本がフィリピンに対して行なったひどいことなどの展示はなされています。そのような絵画を見ながら、私たちの国がアジアの国々に対して行なった戦争のことを忘れてはいけないと思いました。

 イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。あなたたちは自分たちは神さまから選ばれた民で、特別な人間であると思っている。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われて、戸惑っているけれども、でも自分を愛してくれる人を愛するというようなことは、あなたたちが罪人だと思っている徴税人だってやっていることだろう。自分の仲間内にだけ挨拶するのだったら、異邦人だって同じことをしているだろう。あなたたちは自分は神さまの民で、自分たちは特別だと思っているのだったら、徴税人や罪人、異邦人たちよりもはるかに高い倫理観がなければ、おかしいだろう。神さまが完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい。

 私たちは、「悪い人がいて、その悪い人が自分に対してひどいことをしてくるのに、その悪い人を赦すことができるのかなあ」という思いになります。悪いのは相手で、自分ではないというふうに思って、「敵を愛することなんてできるのかなあ」というふうに思います。

 でも私たちは「敵であるのに、赦された」という経験をもっています。私たちの国はアジアの国々に対して侵略を行ない、ひどいことをしました。それでも戦争がおわったあと、アジアの国々は敵である日本を赦し、日本を徹底的に憎み続けるということはしませんでした。日本と戦争をしていたアメリカも、戦後の日本の復興のために、いろいろなことをしてくれました。私たちは「敵であるのに、愛された」という経験をしています。

 私たちの世界が平和な世界になりますようにとお祈りをしたいと思います。あきらめることなく、互いに尊敬しあい、互いに思いやることのできる私たちの世界になりますようにと祈っていきたいと思います。


2025年8月2日土曜日

2025年7月27日

 2025年7月27日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

「落ち着いて考え、前に進む」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 7:15-29節

 女優の長澤まさみは、「自分が他人の領域に入る際に大事なのは、相手へ敬意を払うこと」(CALSSY,2025.4.28)と言っています。倫理観をもって、互いに尊敬しあって生きていくということは、とても大切なことなのだと思わされました。

 何が本当か、何がうそなのかが判断がつきにくい社会になりました。「警察を名乗ってかかってくる電話は、詐欺の電話です」という電話が、警察からかかってきます。この電話ははたして警察からかかってきた電話なのか。「クレタ人はいつもうそつき」(テトス1章12節)と言っているクレタ人のような話です。

 「偽預言者を警戒しなさい」「偽警察を警戒しなさい」。詐欺事件やフェイクニュースにあふれた私たちの社会です。なかなか大変な世の中ですが、私たちはイエスさまの教えを大切にして、落ち着いて考え、前に進んでいきます。

 人にだまされないということも大切ですが、しかしもっと大切なことは自分がどのように生きるのかということです。ということで、何を土台にして生きていくのかということが問われるわけです。「家と土台」という聖書の箇所では、そもそもはイエスさまの言葉を聞いて行なうか、行なわないかということが問われているわけです。しかし読む私たちは、「何を土台にして生きていくのか」ということが気になるわけです。そしてそれは「何を土台として生きていくのか」ということは、とても大切なことであるからです。いいかげんなものを土台にしていては、人生をあやまってしまうのです。私たちは確かな土台として、イエス・キリストにより頼んで生きていきます。

 今日の聖書の箇所は、イエスさまの大切な教えが書いてあると言われる、山上の説教の最後のところにあたります。山上の説教は、マタイによる福音書5章からはじまり、7章で終わります。

 イエスさまは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。イエスさまは「あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われました。イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。イエスさまは「富は、天に積みなさい」と言われました。イエスさまは「人を裁くな」と言われました。イエスさまは「狭き門から入りなさい」と言われました。

 イエスさまの教えを土台として、イエスさまから離れることなく、歩んでいきたいと思います。


2025年7月25日金曜日

2025年7月20日

 2025年7月20日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

「人の温かさに感じ入る」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 7:1-14節

 森まゆみの『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』(婦人之友社)は、自由学園をつくった羽仁もと子について書かれてあります。「じょっぱり」とは羽仁もと子の故郷の青森の言葉で、「信じたことをやり通す強さ」を意味する言葉です。羽仁もと子は「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」という人生をおくりました。いつも自分で考え、そして生活に根ざしたことを行ない、神さまに祈りつつ歩みました。そして困っている人がいると、なんとかして手を差し伸べるという姿勢で歩みました。『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』を読んでいますと、「人の温かさに感じ入る」という気持ちになりました。「ああこんなに温かい人いて、人のためになんとなしようと思う人がいるんだ」と思うと、とてもうれしい気持ちになります。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。神さまが導いてくださっているのだから、神さまを信じて、神さまから託されたわざを一生懸命に行なっていくのです。人を裁くのではなく、共に助け合いながら、良きことのために協力して働いていくのです。人を信じて、自分の協力者として一緒に歩んでもらうのです。狭き門に見えるけれども、神さまが示してくださる道を、まっすぐに歩んでいくのです。困っている人、助けを求めている人がいたら、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御言葉のとおり、良き業に励んでいくのです。

 羽仁もと子もそうでしたが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というような、温かみのある人たちが、私たちの世界を支えています。先月、梅花女子大学の礼拝に行きました。梅花学園の創設者である、沢山保羅の愛唱聖句も、マタイによる福音書7章12節の言葉です。「何事でも人からしてほしいと望むことは人々にもそのとおりにせよ」(マタイによる福音書7章12節)と、礼拝堂の聖書に挟まれた「しおり」に書かれてありました。

 よき社会のために、あきらめることなく、祈りつつ、歩んでいった信仰の先達が、私たちにおられます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御言葉のとおり、良き業に励んでいった、温かい信仰にふれることができ、とてもうれしい気がいたします。私たちもまたキリスト教のよき伝統を受けついて、小さな良き業に励む、こころの温かい人でありたいと思います。


2025年7月18日金曜日

2025年7月13日

 2025年7月13日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

「あなたの中にある光」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 6:22-24節

 夏目漱石はロンドンに留学中の日記にこう記しています。「未来は如何にあるべきか。自ら得意になる勿れ。自ら棄る勿れ。黙々として牛の如くせよ。孜々として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼する勿れ。真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実に行へ。汝の現今に播く種はやがて汝の収べき未来となつて現はるべし(1901年3月21日付)」。なんとなく世界が大きく変化していると感じるいま、私たちはいままでのあり方をもう一度しっかりと考え直してみるときなのだろうと思います。

 イエスさまは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました。このイエスさまの言葉は、やっぱり私たちにとっての根源的な問いかけであると思うのです。「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と、イエスさまは言われます。

 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。この聖書の御言葉は、「あなたの目が澄んでいる」とも、「あなたの目が濁っている」とも言っていません。ただ「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と言っているだけです。そして聖書は言います。「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。「あなたの中にある光が消えれば」ということですから、消える前には私たちの中には光があるということです。聖書は「あなたの中には光がある」と、私たちに言っています。

 私たちの中には確かに光があるのです。イエス・キリストという光があるのです。ヨハネによる福音書1章は、「言が肉となった」という聖書の箇所です。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」。世の光であるイエス・キリストが、私たちの間に宿られたのです。光を理解することのない暗闇である私たちのところに、イエス・キリストは光となって宿ってくださったのです。

 不安の多い私たちの世の中です。しかしだからこそ、私たちキリスト者は、目先のことではなくて、根源的なことに目を向けたいと思います。私たちはイエス・キリストによって生きているのです。イエス・キリストが私たちの光となってくださり、私たちの中に宿ってくださっている。このことを覚えて、歩みましょう。イエス・キリストの光を、消すことのないように、祈りながら、歩んでいきましょう。


2025年7月11日金曜日

2025年7月6日

 2025年7月6日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

「ごめんね。わたしが悪かったね」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 5:21-37節

 わたしの友人の牧師が後輩の牧師さんから、「Tさんはいろんな問題発言をするけど、ちゃんと謝れるからえらいですよねえ」と誉められていました。なかなかの褒め言葉だと思いました。みなさんは「ごめんね。わたしが悪かったね」と、素直に謝ることができますか?。どうですか。わたしはちょっと自信がないです。

 「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」と、イエスさまは言われました。イエスさまはこうした「してはならない」ことを取り上げながら、「人間のしていることというのはいいかげんなことなのだ」と言われます。「殺すな」と言われているから、「わたしは殺さない」と胸をはるけれども、しかし人に対して腹を立てたり、人を馬鹿にしたり、人を見下したりして、人を傷つけている。「姦淫するな」と言われているから、「わたしは姦淫しない」と胸をはるけれど、しかし心の中では何を考えているかわからない。「離縁状を出せば、自由に離縁することができる」と律法を誤って解釈して、女性に対して辛く当たっているということを考えもしない。できもしないことを誓い、人々に迷惑をかけ通しだ。

 そんな私たちであり、絶望的なのだから、火の地獄に投げ込まれてしまえばいいと、イエスさまは言っておられるわけではありません。人はいいかげんであり、情けないところや自分勝手なところがあるけれども、互いに許し合い、和解し合って歩んでいこう。「あっ、わたし、あの人に悪いことをしてしまった」と思ったら、神殿に献げ物を献げにいく途中であろうと、やはり仲直りしにいこう。

 そして自分の罪をしっかりと見つめよう。「律法に書いてあることを守っていればいいや」「決まっていることだけ守ればいいや」ということではなくて、自分でしっかりと神さまに向き合って、「神さま、わたしはこれでいいのでしょうか。わたしのしていることはあなたの御前で恥ずかしいことではないでしょうか」という思いを持ちなさいと、イエスさまは言われます。

 いろいろなことで腹の立つこともあります。わたしだけが悪いのではないと思えることもあります。しかし私たちは罪赦された者として生きているわけですから、自分が悪かったと思えるとき、「ごめんね。わたしが悪かったね」と素直に言える者でありたいと思います。そして神さまが罪赦されていることの喜びを、こころから受けとめることのできる者でありたいと思います。


2025年7月4日金曜日

2025年6月29日

 2025年6月29日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

「神さまの輝きを放つわたし」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 5:13-16節

 柚木麻子の『らんたん』という小説は、恵泉女学園中学校・高等学校の設立者の河井道と一色ゆりのシスターフッドの物語です。津田梅子や新渡戸稲造、有島武郎、平塚らいてう、山川菊栄などなど、いろいろな人たちが登場する楽しい小説です。明治時代の女性たちが生き生きと描かれています。それぞれの生き方の違いもあるわけですが、それでもお互いのことを考えあい、協力しあい、「ああ、シスターフッドっていいよね」と思えます。

 小説の中で、新渡戸稲造が留学をする河井道を励ます話が出てきます。「提灯のように個人が光を独占するのではなく、大きな街灯をともして社会全体を照らすこと。僕は道さんにそんな指導者になってもらいたいと思って、どうしても欧米の夜景を見て欲しかったのです」。

 河井道は新渡戸稲造の願いのとおりに、光を独占するのではなく、社会全体を照らす生き方をしていきます。そしてそのことのために、河井道は恵泉女学園を創立するわけです。まあ本当にりっぱな人だと思います。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。このマタイによる福音書5章16節の言葉のように生きた人だと思います。

 初期のキリスト教が広まっていった大きな理由は、クリスチャンが小さなよき業に励んだからだと言われています。ローマ皇帝のユリアノスは、キリスト教のことが大嫌いでした。それでクリスチャンが増えないようにするために、クリスチャンがしている小さなよき業をあなたたちもしなさいという手紙を書いています。

 やっぱり地の塩、世の光として生きていくということは大切なことであるわけです。クリスチャンとしての志を失ってしまっては、なんのためのクリスチャンだということもあります。そのように生きているかとか、そのように生きることができるのかということだけでなく、そのように生きていきたいという志を、私たちは失わないようにしたいと思います。

 イエスさまは言われました。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。イエスさまから託されている歩みを、しっかりと受けとめて、自分にできる小さな良き業に励んでいきたいと思います。


2025年6月26日木曜日

2025年6月22日

 2025年6月22日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「良き人として生きたい人の群れが流れとなって」小笠原純牧師

  マタイによる福音書 3:1-6節

 文化人類学者の松村圭一郎の『うしろめたさの人類学』という本を読んでいると、自分があたりまえのように考えていたことが、世界のどこででもあたりまえではないということを、いまさらながら気づかされました。エチオピアでは戸籍や住民票がないので、親はすぐに子どもに名前を付ける必要もない。家族が生まれた子どものことを、それぞれ好き勝手な名前で呼ぶこともあるそうです。

 私たちは自分の周りのことだけをみて、自分の常識で判断をして、「もうだめだ」「世の中、どんどん悪くなっている」と悲観的にみてしまうことがあります。しかし私たちの常識を超えたところで、そうでもないということがあるかも知れないわけです。

 洗礼者ヨハネはイエスさまが来られる前に、人々に悔い改めを迫った預言者です。洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野で人々に宣べ伝えていました。洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、多くの人々が洗礼者ヨハネのところに集まってきます。「こんな怖い人のところにいくのはいやだ」というふうに思うのではなく、神さまに向き合い、「わたしは悔い改めなければならない」と思い、怖い洗礼者ヨハネのところにやってくるのです。

 神さまを求めていきたい。神さまに従って歩みたい。そのように素直に思う人々がいたのです。悔い改めの洗礼を受けるために、洗礼者ヨハネのところにやってくるわけですから、はじめからそのように思っていたというわけではないのです。神さまの御心に反して、自分の好きなように生きていたのです。「少々悪いことをしてもいいじゃないか。みんなやっていることだし、おれだけが悪いわけじゃない」。そうした思いをもって生きていたのです。しかし思い直して、やはり神さまを求めて生きていきたい。神さまに従って歩みたい。そのように思い直して、洗礼者ヨハネのところにやってきて、洗礼を受けて、自分の生き方を変えていった人々がいたのです。

 私たちの世界には、私たちと同じように、争いではなく、愛にみちたわかちあいの世界に生きていきたいと思っている人たちがたくさんいます。「平和な世界になりますように」と、毎日祈っている人たちがたくさんいます。私たちもそうした人たちと同じように祈り続けていきたいと思います。そしてイエスさまが教えてくださった小さな愛の業に励みたいと思います。良き人として生きたい人の群れが流れとなって、私たちの世界が神さまの愛に満ちた世界となるようにとお祈りしたいと思います。


2025年6月20日金曜日

2025年6月15日

 2025年6月15日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「幼子のような者に」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 11:25-30節

 梅雨によみたい絵本に、西巻茅子『ちいさなきいろいかさ』(金の星社)という絵本があります。西巻茅子さんの絵は、こどもが描いたような絵です。わたしはこの絵をみながら、「なんでこんなへたくそな、こどもの描いたような絵がいいんだろうか」と思っていました。この素朴な疑問を、わたしの妻にしたところ、妻は「これはわざとこどもの描いたような絵を描いているんだ。そしてこの人の絵本は、こどもが描いたような絵のように見えるけれども、構図なんかはとってもよく計算されて描かれてあるんだ」というふうに教えてくれました

 西巻茅子さんはこどもの気持ちを大切にして、そしてこどもが自分の絵と似ていると思ってくれるような、こどもが描いたような絵を描いておられます。こどものときの素直でひたむきな気持ちを、年をとっても持ち続けることは、なかなかむつかしいことですが、西巻さんはこどもが描いたような絵を描き続けることによって、こどもの気持ちをずっと持ち続けているのでしょう。だからこどもから愛される絵本を描くことができるのです。いつまでも幼子のような気持ちを大切にしておられるのでしょうね。

 私たちの救い主であるイエスさまは「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われました。「神さまのことは、子どものほうがよくわかるよ」とイエスさまは言われたのです。大人がむつかしく神さまの話をするよりも、子どものほうは神さまのことをよく知っている。この『かみさまへのてがみ』(谷川俊太郎訳、サンリオ)などを読んでいると、ほんとうにそうだなあというふうに思います。

 幼子のような者とは、もちろん子どもたちはそうですけれど、疲れた者、重荷を負う者が、幼子のような者だと、聖書は私たちに教えてくれます。イエスさまは、「みんなで神さまのところにきて、子どものように休みましょう」と言われました。神さまを信頼して、神さまに委ねて、子どものように休もう。

 わたしは教会というところは、安心して休むことができるところであればと思います。これ、教会で休むというので、教会を休むというのでないところがミソなのです。「で」と「を」では大違いなので、ひとつ誤解のないように。教会がなにもかも忘れて、神さまの愛の中でゆったり、ゆっくり休めるところであればと思います。


2025年6月13日金曜日

2025年6月8日

 2025年6月8日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

「教会ー思いやりをもって生きるー」 小笠原純牧師

  使徒言行録 2:1−13節

 ペンテコステおめでとうございます。今日は姉妹教会のPOVUCC教会から、19名の方が礼拝にいらしてくださっています。

 イエスさまの弟子たちに聖霊がくだって、彼らは「ほかの国々の言葉で話しだし」ます。「ほかの国々の言葉で話した」というのは、相手の立場に立って、相手の気持ちになって話をしたということです。自分の都合ではなく、相手の気持ちを大切にして話すことによって、話が伝わっていくのです。

 人はなかなか思っていることを口に出せないものです。人は「大丈夫」と言われると、大丈夫でなくても、「大丈夫」と応えてしまったりします。わたしは若い時に、病気になって入院をするということがありました。大学病院ですから医学部の教授の回診というがありました。みんな病気なので、「ここがいたいとか、ここが気になる」「いろいろ質問してみよ」というようなことを言っているわけです。でも実際に回診のときに教授から「小笠原純さん、大丈夫ですか」と尋ねられると、「大丈夫です」と応えたりしてしまっていました。

 教会というところは、相手の気持ちになってとか、思いやりをもってということを大切にしているところです。それは教会がもともと、相手の気持ちになって、相手の立場に立って、神さまのことを伝えることによってできてきたところだからです。

 そして教会は、「赦し合う」ということを大切にしているところです。キリスト教のもっとも大きな特色は、失敗者・落伍者が伝えた宗教だというところです。イエスさまの一番弟子と言われていたペトロは、イエスさまが十字架につけられるときに逃げてしまいました。ペトロだけでなく、他のお弟子さんたちもイエスさまを裏切りました。しかしそのイエスさまを裏切ったお弟子さんたちが、復活されたイエスさまに出会い、赦されて、神さまのことを伝えて行きました。

 ですからキリスト教は失敗者・落伍者が「自分が赦された」という喜びを伝えた宗教なのです。それで自分が赦されたのですから、キリスト教は「赦し合う」ということを大切にしています。教会は、「思いやりをもって生きる」「赦し合う」ということを大切にしているところです。ちょっと疲れたなあとか、なんかちょっと不安な気がするなあというようなとき、ぜひ教会に行ってみてください。

 皆様のうえに、神さまの恵みと祝福とが豊かにありますようにとお祈りしています。

 

2025年6月6日金曜日

2025年6月1日

 2025年6月1日 復活節第7主日礼拝説教要旨

「隠れたことを見ておられる神がおられる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 24:44-53節

 ウォルト・ホイットマンの詩に「わたしはアメリカが歌うのを聞く」という詩があります。この詩を読んでいると、現代のアメリカの労働者の人たちの気持ちがわかるような気がします。神さまの祝福のもと、機械工が、大工が、石工が、船員が、靴屋が、木こりが、母親が、少女が、若者が、誇りをもって歌を歌いながら働くことができるような社会であってほしい。素朴なアメリカの人たちはそんな気持ちをもちながら過ごしているような気がします。しかしそうした気持ちにアメリカ政府は政策として応えてくれなかった、自分たちの声を聞いてもらえなかったという気持ちがあるのだと思います。

 イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたときは、イエスさまのことを信じることができずに逃げ出す弱い人たちでした。しかしよみがえられたイエスさまに出会い、イエスさまから赦され、祝福を受け、神さまを信じて新しく歩み始めます。

 私たちの時代、とくに20世紀から21世紀にかけて、神さまを信じて歩むということが、だんだんと薄らいでいった時代であるような気がします。そして個人主義的な傾向が強くなり、自分の力で生きているかのような錯覚に陥ることが多くなったような時代です。自己責任が強調されるようになり、運良く時代の勝者になった人が自分の力でそのようになったと錯覚することが多くなり、困っている人、悩んでいる人の声に耳を傾けることが少なくなった時代であると思います。そして分断がすすみ、二つに分かれて、極端な対立をするということが多くなりました。ひと言で言えば、「神を求めない時代」と言えるかも知れません。自分の力で生きていると錯覚しているわけですから、神さまを求めることはないでしょう。しかしそういう時代であるからこそ、「神さまを求めて生きる」ということが、とても大切なことであると思っています。

 「隠れたことを見ておられる父が、あなたがたに報いてくださる。神さまが私たちのことを知っていてくださる。神さまが私たちの声を聞いてくださると思えるとき、私たちは対立ではなく、愛によって互いにわかりあう道へと導かれていきます。憎しみではなく、愛によって生きていく道へと導かれていきます。互いに声を聞きあい、互いに尊敬しあって歩んでいくことができます。

 来週は聖霊降臨日、ペンテコステを迎えます。神さまの霊である聖霊を待ち望みつつ、神さまにより頼んで歩んでいきたいと思います。


2025年5月31日土曜日

2025年5月25日

 2025年5月25日 復活節第6主日礼拝説教要旨

「祈りによってわたしが整えられる」 小笠原純

  マタイによる福音書 6:1-15節

 平川克美は『会社は株主のものではない』(洋泉社)のなかで、「会社は誰のものでもない。幻想共同体としての会社という視点」ということを言っています。「お金という指標を至上目的とした競争のなかで会社を考えると、どうしても3年ぐらいのスパンでしか考えられませんが、会社というものをもっと長いスパンで考えてみませんかと。10年や20年、あるいは100年というようなスパンで考えると、どういうあり方があるのかを考えてみませんか、ということです」(P.129)。こんなふうに考えると、会社と教会というのはある意味、似ているところがあります。教会というところは、神さまを相手にしていますから、長いスパンで物事をみています。

 人は何か良いことをしたら、すぐにほめてもらいたいと思います。なかなかほめてもらえなかったら、どうして自分はこんなに評価が低いだと怒りたくなったりします。しかしイエスさまはそんな人間の小さな評価よりも、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということの方が大切だと言われます。そんな投機的な株主のようにすぐに報いを回収しようとするのではなく、長期的な展望に立って「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということを心に留めて生きていきなさいと、イエスさまは言われました。

 「小さな良き業に励み、そして神さまに祈りをする」。小さな良き業に励むと言われても、わたしは悪人だから自信がないという方もおられるかも知れません。でも神さまは私たちを祈りによって変えてくださいます。神さまに毎日毎日お祈りをしていると、必ず神さまは私たちをつくり変えてくださいます。

 私たちは祈りによって整えられていきます。ですから祈るということはとても大切なことなのです。私たちの神さまは願う前から、私たちに必要なものをご存じです。それじゃあ、祈る必要はないじゃないかと思えますが、それは違うわけです。私たちが祈ることによって、私たち自身が整えられていくのです。自分勝手な願いをする私たちから、神さまの御旨を求めていく私たちへと整えられていくのです。

 「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」。私たちに報いてくださる神さまを信じて、そして小さな良き業に励む。祈りながら、神さまが私たちを整えてくださることを信じて歩んでいく。お一人お一人の歩みを、神さまは豊かに祝福してくださいます。


2025年5月24日土曜日

2025年5月18日

 2025年5月18日 復活節第5主日礼拝説教要旨

「わたしは道であり、真理である。」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 14:1ー11節

 韓国の小説家ファン・ジョンウンは、『誰でもない』(晶文社)という本のタイトルについてつぎのように記しています。【この本のタイトルもまた、『誰でもない』ではなく『何でもない』と誤解されることがありました。・・・。私には、私が属している社会で人々が自分自身について、そして他の人について考えるときの姿勢が、ここに反映されているのだと思えます。私/あなたは、何でもない】。

 「誰でもない」小さな者である私たちですが、しかし「他の誰でもない」大切な一人の人間であるのです。イエスさまもまた私たちにそのことを教えてくださいました。あなたは神さまから愛されているかけがえのない一人の人間である。イエスさまは病気の人々、悩みの中にある人々のところをお訪ねになり、そしてその人が神さまの愛の中にあるかけがえのない大切な一人であることをお伝えになりました。

 イエスさまは弟子たちに「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。イエスさまによって、私たちは真理を知り、命を得ることができる。そしてイエスさまによって、私たちは神さまへと導かれていきます。そしてイエスさまによって、イエスさまの十字架と復活によって、私たちは永遠のいのちを得ることができるということです。

 十字架を前にして、イエスさまは弟子たちを励まします。なんとなく不安になっている弟子たちに「あなたたちは大丈夫だ」と言われます。「あなたたちは道であり、真理であり、命であるわたしのことを知っているのだから、大丈夫だ」と言われます。弟子たちは自信がありません。自分がちっぽけな存在であることを知っているのです。誰でもない、何者でもない、自分であることを知っています。そして不安になります。しかし、イエスさまは弟子たちを、他の誰でもない大切な一人として愛してくださいます。そしてわたしを信じなさい。わたしにつながっていなさい。わたしは道であり、真理であり、命である。このわたしはあなたたちを離しはしない、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と、弟子たちを招かれたのでした。

 イエス・キリストは私たちを招いておられます。誰でもない、何者でもない私たちを、イエスさまは他の誰でもない大切な大切な一人として、私たちを招いてくださっています。「わたしは道であり、真理であり、命である」。私たちはこのイエスさまが示してくださった神さまへの道を、しっかりと歩んでいきたいと思います。


2025年5月16日金曜日

2025年5月11日

 2025年5月11日 復活節第4主日礼拝説教要旨

「母の願いをこえて」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 20:20-28節

 今日は母の日なので、わたしの母の思い出の出来事をお話いたします。それは「石油ストーブ丸焼け事件」という出来事です。わたしがストーブを消火することなく、灯油を入れていて、満杯になり灯油が飛び散って、ストーブが燃え始めるということがありました。母はそのときふとんをもってきてストーブを包み、そしてストーブを庭に出しました。そして事無きを得たということがありました。わたしの母は力持ちというような人でもありませんでした。しかしこのときの母は力強かったなあと思います。そしてこども心に、母がいてくれて心強いなあと思いました。

 聖書にもある母親の物語が記されてあります。ヤコブとヨハネのお母さんの話です。ヤコブとヨハネのお母さんはヤコブとヨハネと一緒に、イエスさまに息子たちの出世を願いに行きます。身勝手なお願いをヤコブとヨハネのお母さんは、イエスさまにしたわけですが、このお母さんの気持ちもわかるような気がします。親というのはこうした愚かさをもっているのです。「自分の子がかわいい。そのためには少々勝手なことをしてでも・・・」という気持ちがあるのです。

 しかしこどもはそうした親の思いとは違った生き方をし始めます。ヤコブやヨハネは、イエスさまのところにお母さんと一緒にいって、お母さんに「この二人を大臣にしてください」とお願いしてもらうような人間でした。しかしイエスさまが十字架につけられ、三日目によみがえられたあと、よみがえられたイエスさまに出会い、イエスさまを宣べ伝える生き方をし始めます。人々の上にたつのではなく、人々に仕える生き方をし始めました。この生き方はたぶんヤコブやヨハネのお母さんが望んだ生き方ではなかったでしょう。「そんなことやめてくれたら・・・」とお母さんは思ったでしょう。しかしお母さんはまた自分のこどもたちを誇らしく思ったことでしょう。そしてこどもたちのために、神さまにお祈りしただろうと思います。「わたしの願いとは違ったけれども、この子たちが、自分の思いどおり、人々に仕え、神さまに仕えて生きていけますように」。私たちは人間ですから、身勝手な思いで、人間的な思いをもつときがありますしかし神さまはヤコブやヨハネのお母さんの思いを越えて、人として確かな道へと、ヤコブやヨハネを導いてくださいました。

 神さまは心のなかに邪な思いをもつ私たちを、それでも愛してくださり、私たちの歩む道を整えてくださいます。神さまの愛の中を安心して歩んでいきたいと思います。


2025年5月9日金曜日

2025年5月4日

 2025年5月4日 復活節第3主日礼拝説教要旨

「ここにソロモンにまさるものがある」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 12:38-42 節

 人は何か確かに見えるものを求めようとします。まあ何か形があれば、安心できます。しかしいまはほんとうに簡単に映像もあったかのようにつくることができるようになりました。1945年8月16日の毎日新聞の一面は、「皇居二重橋前広場で土下座する人々」という写真が載っています。この写真は合成写真だそうです。

 イエスさまがよみがえられたことを信じられなかったトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。まあそれでイエスさまはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と言われてしまいます。「見ないで信じる人は、幸いである」というのは、「ただ」信じるということです。

 基本的に、信仰というのは、二つの「ただ」でなりたっています。使徒パウロは信仰義認ということを言いました。信仰義認というのは、何かをしたから救われるというのではなく、「ただ」信じることによって、救われるということです。神さまも私たちに「・・・してくれたら」とは言われないのです。「律法を守ってくれたら、あなたたちを救ってあげる」とは、神さまは言われませんでした。「りっぱなことをしてくれたら、あなたたちを救ってあげる」とは、言われませんでした。私たちが救われるのは、神さまの憐れみによって救われるのです。いわば、私たちが救われるのは、「ただ」で救われるのです。こんなふうに、信仰の世界というのは、基本的に、「たら」の世界ではなくて、「ただ」の世界であるのです。「ただ」で救われたのだから、「ただ」信じるのです。「・・・してくれたら」の「たら」の世界ではなく、「ただ」信じるという世界に、私たちは生きているということです。

 イエスさまは私たちに与えられるしるしは、ヨナのしるしだけであると言われました。ヨナのしるしというのは、イエスさまの十字架と復活の出来事です。三日三晩、大魚のお腹の中にいたヨナのように、イエスさまも十字架につけられて葬られ、三日目に甦られるということです。そしてイエスさまのことを信じて、神さまの前に悔い改めて生きていく。このことが大切だということです。

 イエスさまは言われました。「ここに、ヨナにまさるものがある」「ここに、ソロモンにまさるものがある」。ヨナにまさる方が、ソロモンにまさる方が、私たちと共にいてくださるのです。イエスさまを信じて、イエスさまと共に歩みましょう。



2025年5月2日金曜日

2025年4月27日

 2025年4月27日 復活節第2主日礼拝説教要旨

「すこやかな歩みを大切に」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 28:11-15節

 社会から倫理というものが失われてくると、「まあ少々嘘をついてもまあええか」という人が出てくるようになります。現代は嘘活用社会です。嘘を活用して、うまくこの世を乗り切ろう。嘘を証明するのには、証明するのに時間がかかる。嘘をついて、その場をごまかし、ことを有利に運んでいけば、成功すること間違いなし。嘘かどうかというようなことは大したことではない。という「嘘活用社会」です。とても困ったことだと思います。

 マタイによる福音書には、イエスさまの復活について、ユダヤの指導者たちが、イエスさまの遺体を弟子たちが盗み出したというように嘘をつくように、兵士たちにもちかけたという話が出てきます。

 気軽に嘘が広がっていく社会は、その社会に住んでいる人々にとって、あまり良い社会にはなりえません。嘘は簡単につくことができます。しかしその嘘が嘘であることを証明するためには、いろいろな労力が必要になります。どんどん嘘をついていけば、嘘を嘘であると証明する労力はもっともっと大変になってきます。そういう意味では嘘には勝てないのです。しかし嘘がなければ、その嘘を証明する必要はないわけですから、ほかのもっと良いことのためにその労力をつかうことができるので、社会にとっては良いことです。嘘は社会を疲弊させ、社会を貧しくさせていきます。

 エフェソの信徒への手紙には、「クリスチャンはこんな感じで生きたいよね」ということが書かれた聖書の箇所(エフェソの信徒への手紙4章25−32節)があります。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。・・・互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」。江戸の狂歌、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」のように、あまり倫理ばかりが強調されるのもしんどいと思います。しかし。なるべく、嘘はつかず、互いに親切にして、憐れみの心を大切にして、互いに赦しあいながら生きていく。そうした健やかな歩みでありたいと思います。

 私たちは一人一人、神さまから愛されている大切な人間です。私たちの罪のために、イエス・キリストは十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださいました。そして復活されて私たちの希望となってくださいました。神さまは私たちをとても大切な人として愛してくださっています。神さまに愛されていることを受けとめて、すこやかな歩みでありたいと思います。


2025年4月25日金曜日

2025年4月20日

 2025年4月20日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「やさしい声が聞える」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 20:1-18節

 イースターおめでとうございます。

 イエスさまが十字架につけられる受難物語は、とても激しく、叫び声が聞えてくるような物語です。それに比べて、イエスさまがよみがえられる復活物語は、とても静かな物語のような気がします。

 人はどのようにして、困難な出来事の中から立ち上がっていくことができるのか。どのような支えがあることによって、人は立ち直っていくことができるのか。臨床心理学者の東畑開人が「ケアとセラピー」ということを書いています。(「こころのケアとは何かー寄り添いあいと世間知』、今福章二編『文化としての保護司制度 立ち直りに寄り添う「利他」のこころ』、ミネルヴァ書房)。

 心の援助とか対人支援あるいは人間関係には、「ケア」という関わり方と「セラピー」という関わり方の二種類がある。「ケアとは傷つけないことである」。「ケア」が依存を引き受けることだとすると、「セラピー」は自立を促すということである。自立を促すけれども、寄り添っている人が周りにいる。寄り添っている人がいることによって、人は自立をしていくことができる。「ケア」のないところの「セラピー」は暴力になってしまう。「ケア」が十分に足りていないのに、「セラピー」をすると失敗してしまう。そして失敗したので、また「ケア」に戻ってやり直す。「ケア」と「セラピー」はぐるぐる回る。人はそう簡単に立ち上がることはできません。

 マグダラのマリアのところに現れるイエスさまは、マグダラのマリアに寄り添い、そして自立を促します。泣いているマグダラのマリアにやさしく語りかけ、そして「わたしにすがりつくのはやめなさい」と自立を促します。そしてマグダラのマリアは立ち上がるのです。

 私たちもまた、いろいろな悩みや迷いのなかにあるときがあります。「立ち直れそうにない」というような気持ちになるときもあります。しかしそんなときも、イエスさまは私たちにやさしい声で語りかけてくださいます。私たちの名前を呼び、私たちに生きていく力を与えてくださいます。

 イースター。私たちの救い主である主イエス・キリストがよみがえってくださいました。イエスさまのやさしい声に導かれながら、イエスさまにふさわしい歩みをしていきたいと思います。


2025年4月18日金曜日

2025年4月13日

 2025年4月13日 受難節第6主日礼拝説教要旨

「イエスさまの御国で生きる」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 18:28-40節

 平安教会は新島襄ゆかりの教会です。新島襄が亡命をした船の船長のテイラーは、船主であったハーディーに、新島を紹介します。新島は、Why I escaped Japan ? (なぜわたしは日本を脱出したのか)という長い手記を書きました。できあがったこの手記には、新島がどんなに神さまのことを勉強したいかということがせつせつと書かれてありました。ハーディー夫妻はこの手記を読んで心を動かされます。ハーディー夫妻は、新島がはるばる日本から誰も頼るものがないのに、神さまのことを学びにやってきたということに感動したのです。新島は真剣に「真理とは何であるのか」ということを考えて、そして一生懸命に生きていたのです。

 イエスさまを尋問した総督ピラトは、イエスさまに対して「真理とは何か」というふうにつぶやきました。それはイエスさまに「真理とは何か」ということを尋ねているのではありません。ピラトは「真理などというものがあるのか」というふうにつぶやいているのです。ピラトにとって、本当に正しいことが何であるのかということは、どうでもいいことでした。そしてもう一歩進めて、ピラトは「真理などというものが、そもそもあるのか。そんなものはありはしない」というふうに言っているのです。そして真理について語っておられるイエスさまに対して、「おまえは本当にそんなことを信じているのか」というふうに言っているのです。

 しかし絶望の中にあっても、イエスさまは真理を求めることの力強さを示しておられます。いまどんなに絶望の中にあっても、必ず真理につく者が出てくる。そしてイエスさまの言葉にしっかりと耳を傾ける者が出てくることを、イエスさまは確信しておられます。イエスさまが希望を失うことがなかったのは、それはイエスさまが真理に依り頼んでいたからでした。武力や権力はかならず崩れさって行くものです。しかし真理に依り頼んでいる限り、神さまはイエスさまを見捨てられることはなく、かならず守ってくださることを、イエスさまは知っておられたのです。

 イエスさまは自分がこの世に属するのではなく、ほかの国に属していると言っておられます。イエスさまは神さまの国に属しておられるのです。そこは武力や権力によって支配されているのではありません。イエスさまの御国は真理が満ちている国なのです。

 私たちはこの世でなんとなくあきらめるのではなく、「真理とは何か」「神さまのみ旨とは何なのか」と、真剣に問うていく誠実な歩みでありたいと思います。


2025年4月12日土曜日

2025年4月6日

 2025年4月6日 受難節第5主日礼拝説教要旨

「イエスさまの杯、苦い杯」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 20:20ー28節

 大山崎美術館に「松本竣介 街と人 ー冴えた視線で描くー 展覧会」を見にいきました。松本竣介は明治から昭和にかけて生きた洋画家です。美術雑誌の『みづゑ』は、1940年に軍部による座談会「国防国家と美術―画家は何をなすべきか―」を掲載します。それに対して、松本竣介は1941年に『みづゑ』の4月号に「生きてゐる画家」という文章を発表します。まじめな常識人であった松本竣介は、自分が画家としてしっかりと立ち、そして国家からの干渉を受けて、志が曲がってしまうようなことではだめだというような思いをもっていたのだろうと思います。

 人は誘惑に陥りやすいですから、少々志に反したことをしても、立身出世であるとか、自分の生活が守られることのほうが大切だという気になることもあります。また人間、いつもいつも強いわけではないですから、このときは立派に生きることができたということもあれば、あのときはなんかダメな人間だったなあと思えるときもあります。神さまの前に、いつもいつもすばらしい人間であることができるのであれば、それにこしたことはないわけですが、しかしまあそういうわけにもいかないという人間の弱さがあるわけです。

 ヤコブとヨハネの母はヤコブとヨハネを連れて、イエスさまのところにきて、ヤコブとヨハネの立身出世を願います。それを聞いた弟子たちはみんな腹を立てます。みんな同じことを考えていたからです。

 イエスさまは弟子たちを諭されました。イエスさまは私たちに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と言われました。あなたたちは迷ったり、不安になったりするけれども、でも神さまはあなたたちのことを見ておられる。だからあなたたちは皆に仕える生き方をしてほしい。高慢になり、人をつかおうとする生き方をするのではなく、皆に仕える生き方をしてほしい。わたしがそのように生きたのだから、あなたたちもまたそのように生きてほしい。あなたたちのなかにあるやさしい気持ちを大切にしてほしい。あなたたちのなかにある思いやりの気持ちを大切にしてほしい。

 レント・受難節も第5週目を迎えました。来週は棕櫚の主日を迎えます。十字架への道を歩まれるイエスさまが、私たちを導いてくださっています。やさしい気持ちになって、イエスさまに従って歩んでいきましょう。


2025年4月4日金曜日

2025年3月30日

 2025年3月30日 受難節第4主日礼拝説教要旨

「十字架のイエス・キリストに仕える」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 17:1-13節

 科学史家の村上陽一郎さんは、「『復活』という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる」(「永遠のいのち」『私にとって「復活」とは』、日本基督教団出版局)と言っています。村上さんは、とにかく何であろうと、存在したものはすべて、神さまの中に存在しているのだ。すべてのものは神さまのなかに生きていると言っています。私たちはそういうかけがえのない人生を送っています。そして私たちは永遠に神さまの中に生き続けるのです。

 山上の変貌と言われる聖書の箇所で、イエスさまの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなります。そしてモーセとエリヤがイエスさまと語り合います。しかしその後モーセとエリヤは消え去り、イエスさまがだけが残りました。

 ペトロにとってモーセとエリヤと一緒にいた光り輝くイエスさまは、とても魅力的な人に見えました。わたしも仲間に入れてもらいたいと思えるすばらしい人に見えたのです。わたしも仲間に入れてもらって、モーセさま、エリヤさま、イエスさま、ペトロさまと言われたい。

 しかしペトロの人生にとって、この出来事が大切な出来事であったかと言うと、あまり意味のある出来事ではありませんでした。ペトロが人生を振り返って、自分にとって大切な出来事とは何なのかと考えたとき、ペトロは光り輝くイエスさまの姿ではなく、十字架につけられてぼろぼろになっているイエスさまの姿こそが、わたしにとって意味のあることだったと答えるでしょう。ペトロを救ってくださったのは、光り輝くイエスさまではなく、十字架の上で苦しまれるイエスさまでした。そしてペトロは生涯、十字架につけられたイエスさまに付き従って歩んだのでした。

 いろいろなものは色あせていくけれども、イエスさまによって救われたということだけは、色あせてしまうことがない。光り輝くモーセやエリヤは消え去ってしまうけれども、十字架への道を歩まれるイエスさまだけは、いつも私たちと共にいてくださる。

 私たちは平凡な人間に過ぎないわけですが、神さまにとっては大切な一人です。神さまは私たちを救うために、独り子であるイエスさまを十字架につけられ、私たちの罪をあがなってくださいました。私たちは取るに足らないものですが、しかし神さまにとってはひとりひとりがかけがえのないダイアモンドであるのです。そして私たちは、永遠なものである神さまにつながっているのです。


2025年3月28日金曜日

2025年3月23日

 2025年3月23日 受難節第3主日礼拝説教要旨

「神さまの祝福を受けて生きる」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 16:13-28

 賀川豊彦は、大正・昭和期のキリスト教社会活動家です。賀川豊彦は若い頃、『プラトン全集』を買うためにマヤス宣教師からもらったお金で自分の制服を買いました。しかしそのあと悔やんだ賀川豊彦は出来たての制服を再びお金にかえて旅費にして、マヤス宣教師に赦しをこうためにマヤス宣教師のところに向かいます。そのとき賀川豊彦は死んでお詫びしなければならないというように思い詰めていたようです。賀川豊彦はしばらく放浪したあと、マヤス宣教師のもとを訪ね、マヤス宣教師はとても怒ったのですが、結局、賀川豊彦を赦します。(工藤英一「賀川豊彦の学生時代」『明治期のキリスト教』、教文館)。

 人間ってだめなこともあるけれども、悔い改めて生き直そうという気持ちをもつことができるというのは、人間ってすてきだなあと思います。わたしは賀川豊彦のすばらしいと言われる数々の事業よりも、なんとなく賀川豊彦のだめなところとまじめなところが出ている、この賀川豊彦の服の話のほうに心ひかれます。

 使徒ペトロは信仰告白をしたことによって、イエスさまからほめられます。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われます。

 しかしそのあと、使徒ペトロはイエスさまがご自分の十字架と復活について話をされたとき、イエスさまをいさめます。そしてイエスさまから「サタン、引き下がれ」と叱責されます。使徒ペトロはイエスさまから誉められたことによって、いつのまにか高慢になってしまい、この世での自分の誉れについて考えるようになっていました。イエスさまは弟子たちにとてもきびしいことを言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

 私たちは自分が使徒ペトロのようにだめな人間であることを知っています。イエスさまについていきたい。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまについていきたい。そのように思いながら、またいろいろな困難や誘惑の前に、どうしたらいいのかわからなくなります。しかしそんな私たちを神さまはとらえて導いてくださいます。

 私たちは神さまの祝福を受けて生きています。このことを喜びをもって受け入れ、キリスト者として神さまの祝福を一杯に感じて歩んでいきましょう。


2025年3月21日金曜日

2025年3月16日

 2025年3月16日 受難節第2主日礼拝説教要旨

「悪魔はどんな顔でやってくる?」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 12:22-32節

 元敬和学園高等学校校長の小西二巳夫牧師は、「先生の思いどおりにやってくださったらいいですよ」と言われるようになったら、校長をやめようと思っていたそうです。それ以上続けていると、自分の意見に賛成する人だけになり、自分が高慢になってしまう。小西二巳夫牧師は高慢になるような方ではないと思うわけですが、しかし小西二巳夫牧師は高慢になる気配をおそれて、新しい歩みへと出発をされたということでした。

 いつのまにか二つに一つというような対立構造ができあがり、敵か味方かというような雰囲気になり、ちょっと困ったなあというようなことになることがあります。いまのアメリカの政治情勢は、「敵か味方か」というような感じになってしまっていると言われたりします。しかしまあ、世の中、ふつうに考えると、「敵か味方か」というふうに二つに分類できるわけがないので、落ち着いて考えてみるということが大切であるわけです。

 「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」というイエスさまの御言葉を聞くと、私たちは「あいつがイエスさまに敵対し、あいつが散らしている者だ」というふうに思えます。「あいつがいなければ、うまくいくのに」というような気持ちになります。「もうわたしの周りにはファリサイ派の人々や律法学者たちが多過ぎて困るわ」という気持ちになります。しかしまあ、多くの場合、それは気のせいです。私たちの横でサタンが耳打ちしているので、そんな気持ちになるのです。サタンはにこにこと微笑みながら、私たちの横で「そうだよね。そうだよね」と相づちをうってくれています。高慢のなせるわざというのは、こうしたところが怖いところで、いつも自分はイエスさまの側、神さまの側にいるかのような気になるわけです。「怖いなあ」と思います。

 イエスさまは「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」とも言っておられます。いたずらに争うことなく、落ち着いて、神さまの御心とは何であるのか。自分は高慢になっていないのかと、振り返ってみる歩みでありたいと思います。

 レント・受難節のときを過ごしています。私たちの罪のために、イエスさまが十字架についてくださったことを覚えて過ごしたいと思います。私たちのこころのなかにある邪な思いを、イエスさまに取り除いていただきたいという思いをもって、謙虚に歩んでいきましょう。


2025年3月14日金曜日

2025年3月9日

 2025年3月9日 受難節第1主日礼拝説教要旨

「良い物をくださる神さま」 小笠原純牧師

マタイによる福音書 7:7-12節 

小曽根俊子さんは生れてまもなく高い熱がでて、それがもとで体とことばが不自由になりました。小曽根俊子さんは詩を作るのが好きだったので、いろいろな詩を書きました。その一つが「花」という詩です。 

  さあ涙をふいて

  あなたが花になりなさい

  あなたの花を咲かせなさい

  探しても探しても

  あなたの望む花がないなら

  自分がそれにおなりなさい

 小曽根俊子さんは体が不自由だったので、なかなか自分のことが思い通りになりませんでした。だから、たぶんとっても悔しい思いをしたり、涙が出ることもあったんだろうなあと思います。でも、小曽根さんはやっぱり「涙をふこう」と思いました。「さあ涙をふいて」、わたしの花を咲かそうと思いました。

 人のことを悪く言ったり、人が自分のことをわかってくれないということに腹を立ててばかりいるのではなく、わたしが人のことを愛してあげて、人のことをわかってあげられるやさしい人になろう。

 イエスさまは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われました。それは「あなたたちには神さまがついているから、大丈夫だよ」ということです。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と言われました。それは「私たちの神さまは私たちに良いものを必ずくださるから、大丈夫だよ」ということです。そしてイエスさまは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われました。「あなたにはやさしい気持ちがあるから、それを大切にしなさい。大丈夫だよ」ということです。

 イエスさまは私たちに、「神さまはあなたたちのことが大好きだから安心して、悲しいことやつらいことがあっても、勇気を出しなさい」と言われました。神さまはいつも私たちと一緒にいてくださって、私たちを守ってくださっています。神さまの愛のうちを、安心して歩んでいきましょう。


2025年3月8日土曜日

2025年3月2日

 2025年3月2日 降誕節第10主日礼拝説教要旨

「イエスさまに強く願う」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 14:22-36節

 京都教区の沖縄現地研修で、2/17から2/20にかけて沖縄を訪れました。30年ほど前、関東教区の沖縄現地研修に参加しました。当時と同じように沖縄には米軍基地がたくさんあり、そして辺野古には新たな基地が建設をされようとしています。沖縄県の人たちは二度と戦争はしたくないということについて、私たちよりもとても強い思いをもっておられます。平和を求めて祈ることの大切さを改めて思わされました。

 今日の聖書の箇所の「湖の上を歩く」という聖書の箇所は、初期のキリスト教の状況を表わしている聖書の箇所です。イエスさまが天に帰られ、人々は目の前にイエスさまがいないというなか、イエスさまを信じて歩んでいくことになります。どんな人も、人間ですから不安な気持ちになりますし、また信じられないというような気持ちになります。それは人間ですから、仕方がないのです。初代教会の頭であり、イエスさまの一番弟子である使徒ペトロでも、不安になったり恐れたりするのです。

 ペトロはイエスさまから「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。そしてペトロはイエスさまに水の上を歩きたいと願います。水の上を歩くというできそうもないことを、ペトロはイエスさまに願うのです。ペトロは不安であったと思います。しかしイエスさまは「来なさい」と言われます。わたしをしてわたしのところに「来なさい」と、イエスさまは言われます。そしてペトロは勇気を出して、イエスさまの招きに応えます。しかし風が強くふき、ペトロは不安になります。やっぱりだめなのではないかと思います。そして事実、ペトロは湖に沈みそうになります。「ああ、だめだ」と思えた時、イエスさまは手を差し伸べてくださり、ペトロを救ってくださいました。「ああ、だめだ」と思えるとき、イエスさまは救いの御手を差し伸べてくださる方であるのです。

 いまは私たちの世の中は、力でものごとを解決する道を選ぶことが多くなり、正しさややさしさがないがしろにされることが多くなっています。ウクライナやパレスチナでは戦争が続き、ミヤンマーでは軍事政権が続いています。「私たちの世界が平和な世界になりますように」という私たちの祈りも、力によってかき消されてしまいような気持ちになってしまいます。しかし私たちはやはり、「平和な世界になりますように」との祈りを、イエスさまに、神さまに強く祈り続けていきたいと思います。


2025年2月28日金曜日

2025年2月23日

 2025年2月23日 降誕節第9主日礼拝説教要旨

「わたしもイエスさまにほめられたい。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 15:21-31節

 「私は褒められて伸びるタイプだから」というようなことが、一時期、よく言われていました。わたしも「私は褒められて伸びるタイプだから」というようなことが言える時代に育ちたかったなあと思います。

 イエスさまはティルスとシドンの地方に行かれ、そこでカナンの女性に出会います。カナンの女性は病気の娘をいやしてもらおうと、イエスさまにお願いをします。しかしイエスさまからやんわりと断られます。カナンの女性があきらめることなく、一生懸命に、そしてとんちをきかせて、イエスさまに頼み続けたので、イエスさまは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われました。そして女性の娘の病気は、イエスさまによっていやされました。

 カナンの女性も、ユダヤの群衆たちも、「つらい思いをしている人を助けたい」というまっとうな思いをもっていました。病気の娘をいやしてもらいたい。隣に住んでいる足の不自由な人をいやしてもらいたい。目の見えない友だちが見えるようになってほしい。体の不自由な義理の娘が、歩けるようになってほしい。自分が病気であるわけではないけれども、「つらい思いをしている人を助けたい」。そうした思いをもっていた人たちは、イエスさまが病気の人や体の不自由な人が癒やされるのをみて、神さまを賛美したのでした。

 イエスさまはカナンの女性のどんなところをほめられたのかが、気になるかも知れません。わたしは、それは「カナンの女性がおもしろいことをいったから」だと思いますが、ですからみなさんに「カナンの女性のように、みんなおもしろいことを言う人になりましょう」というお話をするわけにもいきません。しかしカナンの女性がなにかしたから、イエスさまがほめられたということよりも、ただイエスさまがカナンの女性をほめてくださったということのほうに、わたしは大きな意味があると思います。イエスさまはしんどい思いをしているカナンの女性をほめてくださったように、しんどい思いをしている私たちをほめてくださる方なのです。イエスさまは小さき者たちを顧みてくださる方なのです。私たちの悩みや苦労を知っていてくださり、私たちをほめてくださる方なのです。

 いまもイエスさまは一生懸命に生きておられるみなさん、ひとりひとりをほめておられます。「あなたの信仰は立派だ。安心していきなさい」。そんなイエスさまに導かれて、神さまの愛のうちを、私たちも歩んでいきたいと思います。


2025年2月22日土曜日

2025年2月16日

 2025年2月16日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

「ここにいますよ〜イエスの神殿」 俣田浩一牧師

  ヨハネによる福音書 2:13-22節

 イエスは神殿から商人達を追い出します。でも境内で売り買いされていた牛や羊や鳩は捧げもの用でした。遠くから来る巡礼者達は、牛や羊を連れて旅する分けには行きません。身軽に旅をして、捧げ物は神殿で買うのです。また神殿では献金用のユダヤの伝統的な貨幣に交換する必要がありました。そのために両替人が境内にいたのでした。ですからこれらの商売は必要でした。イエスはそれを破壊したのでした。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。」ユダヤ人達はすぐに反応します。「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか。」それに対してイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言います。しかし建てるのに四十六年もかかった神殿を、あなたは三日で建て直すのかと、ユダヤ人達はまた不審に思います。しかしイエスが言う神殿とは御自分の体のことでした。つまり死と復活のことでした。するとなぜイエスはそれを言うために神殿にいる商人達を追い出したのでしょうか。

 過越祭の「過越」はギリシア語で「パスカ」、これはあるものから別のものへと変わるという意味の言葉です。別のものに変わるということは交換が可能ということです。それはお金とも交換可能です。つまり商売です。物はお金と交換されます。価値の交換である商売を神殿でしていた。イエスはどうもそれが気に入らなかったようです。価値の交換をしてはならない、商売をしてはならない。それはなぜか。イエスにとって、神殿、父の家とは交換出来ないものを扱うところだったからです。交換できないもの、それは神から与えられたいのちです。十字架の死からの三日後の復活に顕される、神から与えられた永遠のいのち。「建て直す」という言葉は「よみがえる、復活する」と同じ言葉です。死と復活に示される私達を創られた神との根源的な関係は、何を持ってしても交換できない、かけがえのない関係なのだと。そのことを扱う場所が神殿だと。イエスはそれを言おうとした。そしてそれを行動で現したのではないかと思います。結果的にはこの行為がイエスを十字架の死へと招きました。神から与えられたいのちは何を持ってしても代えられないもので、死に勝利する復活の永遠のいのちだと、イエスは自らの命を持ってそのことを伝えたのでした。


2025年2月14日金曜日

2025年2月9日

 2025年2月9日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

「すなおにおなり」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 5:1-11節

 この聖書の箇所はイエスさまの弟子たちの召命物語です。しかしどうして弟子たちはこうも素直に、イエスさまにつき従うことになったのでしょうか。「すべてを捨てて」イエスさまに従うようになったのでしょうか。わたしは弟子たちが、暗い湖を見つめながら、自らの心の深淵に思いをはせる、自分の罪を深く顧みることがあったからだと思います。弟子たちは暗い湖をみつめるという日常の生活の中から、イエスさまの御言葉に出会ったのです。

 ペトロたちは「夜通し苦労する者」だったのです。ペトロたちは貧しい漁師として生きていました。夜通し苦労しても、何もとれないことがある。食べていかなければならないのに、食べていくための魚は十分には得られない。貧しさの中で、互いに口論することもあったでしょう。「あいつが悪いから、漁がうまくいかなかった」「なんであいつはいつもいばってるんだ」「ちゃんとだんどりをやっとけよ」「なんだその言葉遣いは」。そんなことが私たちの日常生活と同じように起こっていただろうと思います。

 そして暗い海をみつめながら、自らのことを思うのです。「なぜ自分はもっと思いやりのある言葉をかけることができないのだろう」「みんな貧しくて苦労しているのに、自分のことだけ考えて、うまくたちまわるのだろう」「どうして仲間のたらないところを、心優しくおぎなっていくということができないのだろう」「なぜいつもいらいらいらいらして、互いに傷つけあっているのだろう」。暗い夜の湖をみつめながら、正しく生きられない自分の罪を顧みていたのです。「神さま、わたしはほんとうにあなたから祝福されているのでしょうか」「神さま、わたしはあなたから愛されているのでしょうか」。暗い湖のうえ、舟に揺られながら、自分の揺れるこころと向き合っていたのだと思います。

 夜の暗闇の湖に揺られながら、自らの魂の深淵をみつめていたペトロやヨハネやヤコブは、イエスさまと出会い、イエスさまについていきました。私たちもまた罪と暗闇の湖に揺れながら、迷い、傷つき生きている者です。そんな私たちをイエスさまは「恐れるな」「そのままでいいんだ」「素直になりなさい」と招いてくださっています。イエスさまの招きに応え、イエスさまにつきしたがっていきましょう。


2025年2月8日土曜日

2025年2月2日

 2025年2月2日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

「ほっとできるところがいいよね。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 21:12-16節

 2年ほど前、長野市の公園が閉鎖になるというニュースがありました。住宅街にある公園で、日中は保育園児が、夕方は小学生たちが多数訪れて遊んでいた公園でした。公園の閉鎖が残念と感じる人もいるでしょうし、静かになってほっとすると感じる人もいるでしょう。なかなか解決のむつかしい問題です。

 いろいろな人が事情を抱えた人が、教会に集ってきます。集う人が安心してくることができるということは、とても大切なことだと思います。当り前のことですが「怒られた」ということを経験すると、やはりその場所から足が遠のいてしまいます。しかし互いに思いやりを大切にして、みんながほっとできる教会でありたいと思います。

 政治哲学者のマイケル・サンデルは、朝日新聞のインタビューのなかで、「公の場の再構築」「多様な階層の人が交ざりあう公の場を再興しましょう」と言っています。みなさんは「多様な階層の人が交ざりあう公の場」と言われて、何を思い浮かべられますか。わたしは、それはまさに「教会」という場だと思いました。これからの社会の中で、「多様な階層の人が交ざりあう公の場」としての「教会」の果たす役割というのは、とても大きなものだと思います。

 教会ではどの人も、神さまの前に立つ一人の人です。その人が社会的にどのような地位にあっても、どのような仕事をしていても、女性であろうと、男性であろうと、あかちゃんであろうと、壮年であろうと、みんな神さまの前に立つ一人の人であるのです。そしてみんな礼拝に集い、神さまをほめたたえるのです。教会は社会の緩衝材としての大切な役割があるのだと思います。

 祭司長たちや律法学者たちは、自分の都合の悪い人たちに対して、腹を立てていました。こどもがイエスさまのことを「ダビデの子にホサナ」「イエスさまに神さまの祝福がありますように」と言うのを聞いて、腹を立てていたのです。それに対して、イエスさまは「子どもたちが自由に語ることができるようなところでないと、その場所は神さまから祝福を受けた場所とは言えないよ。聖書にも、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』と書いてある」と言われました。

 対立の多い社会の中にあって、私たちは安心して集うことのできる場所としての教会の歩みを大切にしたいと思います。教会がほっとできる場所となる。また教会に集う私たちが、世の人に対して、ほっとできる人になることを、心がけていきたいと思います。

 

2025年1月31日金曜日

2025年1月26日

 2025年1月26日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

「怒りについて」 大谷隆夫牧師

  ヨハネによる福音書 2:13-22節

 私が、関西労働者伝道委員会の専任者として働き始める直前の半年間ほど、アメリカのホームレスの人たちの実態を知るために、アメリカに滞在したことがあります。そのアメリカ滞在中の出来事ですが、ある時、ルカ福音書10章25~37節に書かれている、サマリヤ人にならって、テレビを観ているみなさんも、ホームレスの人々に出来るだけ支援していくためにカンパをしてください!という内容のテレビのコマーシャルが流されたのです。

 実は、私はその時、アルバイトをしていたのですが、そのアルバイトの賃金は非常に低賃金だったのですが、ちょうどこのテレビのコマーシャルが流された時に、私の雇い主もこのテレビのコマーシャルを一緒に観ていて、「TAKOさん!私はホームレスの人たちにもカンパをし続けているんです!」ということを言ったわけです。

 その時に私が思ったことですが、ホームレスの人たちにカンパをするのも良いが、もっと自分の賃金を上げて欲しいと思いましたし、このルカ福音書10章25~37節に書かれている、「善いサマリヤ人のたとえ話」は、単純に隣人愛の話だと考えてはいけないのではないかということでした。追いはぎに襲われ、半殺しの状態に置かれていたある人に出会った時に、サマリヤ人がどう感じたのかということです。私はそこにサマリヤ人の「怒り」というものを感じるわけであります。追いはぎに襲われ、半殺しの状態に置かれていた、そういった不条理な状態にある人が置かれていることに対する、社会悪に対するサマリヤ人の「怒り」であります。このサマリヤ人の「怒り」はイエスの「怒り」でもあるわけですが、このイエスの「怒り」の総決算と言うべきものが、今日、選んだ聖書の箇所に書かれている、イエスが神殿から商人を追い出した行為であると言えます。

 良く考えて見れば、私の30年以上に渡る釜ヶ崎の歩みを支えて来た原動力は、釜ヶ崎日雇労働者、野宿を余儀なくされている労働者が置かれている、不正義、不当な、社会悪に対する怒りであり、憤りであったと思います。

 今日の聖書の箇所に書かれている、イエスのように、いわゆる「社会悪」に対して、本当に怒るべき時は、たった一人でも、支持してくれる人が誰もいないような状況であっても、怒り続けて行きたいと改めて思わされている次第です。

 

2025年1月25日土曜日

2025年1月19日

 2025年1月19日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

「イエスさまに治していただく」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 4:18-25節

 俳優の北川景子は小学生のときに、神戸で阪神大震災を経験しています。自宅や家族は無事でした。それでも「なぜ自分がこんな目に逢うのか、亡くなった人はどうして亡くならないといけなかったのか」。とても気持ちが落ち込みます。

 北川景子は数年後、大阪にあるキリスト教系の中学校である、大阪女学院に入学をします。【転機は中学時代。キリスト教系の大阪女学院に入学すると、震災以来の不安感や絶望感が次第に薄れていく。きっかけは言葉の力だった。今でも忘れられないのが、入学式後に教師から教えてもらった「置かれた場所で咲きなさい」という語句だ。ずっと「なぜ自分が」と狭い世界の中で思考を巡らせていたが、それぞれの環境で頑張ればいいと「腑(ふ)に落ちたというか、救い、気づき、導きになった」。他にも「神は乗り越えられる試練しか与えない」「人にしてもらいたいことをしてあげなさい」など、たくさんの言葉が思春期の心を支える】(日本経済新聞の2025年1月5日)。

 「四人の漁師を弟子にする」という物語のなかで語られる、「すぐに網を捨てて従った」「すぐに、舟と父を残してイエスに従った」というときの、「捨てて」とか「残して」というのは、がんじがらめになっていたものから解き放たれていくというようなイメージなのだと思います。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、なんとなく自分でどうしたら良いのかわからず過ごしていたのだと思います。そんなとき、彼らはイエスさまに出会い、イエスさまから「わたしについてきなさい」と声をかけられます。彼らはかんじがらめになって、自分でもどうしたらよいかわからなかったけれども、イエスさまから声をかけられ、「この人についていこう」と思い、新しい歩みを始めます。

 このわたしのこころのなかにあるどうしようもない邪な思いを治していただきたい。自分でもこの気持ちをどうにかしなければならないと思うのだけれども、どうしても断ち切ることができない。人の思いは複雑ですから、自分の思いでありながら、自分でどうすることもできないというようなこともあります。私たちは自分ではどうすることもできないけれども、でもイエス・キリストは私たちを癒やしてくださり、私たちに新しい命を与えてくださいます。そして私たちに新しい力を与えてくださり、前を向いて歩んでいく力を与えてくださいます。

 イエスさまが、私たちを招いてくださっています。イエスさまの招きに応えて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。



2025年1月18日土曜日

2025年1月12日

2025年1月12日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

「おぼろに見ている」 小笠原純牧師

  1コリント 13:1-13節

 パウロさんは大切なことが三つあると言いました。「信仰と希望と愛がとても大切」。それでこの三つの中でもっとも大切なのは、何なのか。パウロさんは「信仰の人」だったから、「もっとも大切なのは信仰だ」と言ってもおかしくないような気がするのですが、でもこう言いました。「その中で最も大いなるものは、愛である」。「愛は神さまがくださるものだから、やっぱり一番大切だ」と、パウロさんは思っていました。

 パウロさんは「人間ははっきりとものをみていない」と思っていました。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」と言っています。「自分のことは自分がよく知っている」というのであれば、自分の顔がどんな顔かはっきりと見ていてもいいような気がしますが、私たちは自分の顔を直接見ることはできません。私たちは自分の顔も「鏡に映ったものを見ています」。

 私たちは意外に自分のことを知りません。周りの人のほうがはるかにわたしのことを知っているということがあります。みなさんのお母さんは、みなさんがどんなにかわいらしく笑うかを知っています。みなさんのお父さんは、みなさんがどんなに気持ち良さそうに眠っているのかを知っています。みなさんの友だちは、みなさんがどんなにやさしい顔を友だちにむけてくれるのかを知っています。みなさんの恋人は、みなさんがどんなにすてきな瞳で自分をみつめてくれるかを知っています。

 「私たち人間が見ているものは、鏡におぼろに映ったものにすぎない」のです。だから私たちはお互いに謙虚にならなければなりません。私たちが真理を振りかざして人を問いつめようとしたり、人を裁こうとするとき、自分が絶対に正しいと思い込んでいるとき、私たちは自分たちが見ているものが「鏡におぼろに映ったものにすぎない」ということを思い起こさなければなりません。

 大切なことは神さまが私たちを愛してくださっているということです。自分がりっぱであるとか、自分がりっぱでないとか、そういうことが大切なのではない。神さまがわたしのことを愛してくださっているということが大切なのだと、パウロさんは言いました。

 私たちは大きな神さまの愛のなかに生かされています。神さまが私たちを守ってくださっています。私たちのことを愛してくださる神さまにより頼んで、神さまの愛に感謝して歩んでいきましょう。

 

2025年1月11日土曜日

2025年1月5日

 2025年1月5日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

「神さまの導きに従って」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 2:13ー23節

 2025年を迎えました。新しい年も皆様のうえに、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。

 毎年、わたしは年賀状に、聖書の言葉を書くことにしています。「善を求めよ。悪を求めるな。 お前たちが生きることができるために(旧約聖書 アモス書5章14節)」「私たちの世の中が、奪い合いではなく、わかちあいの世の中であることを信じて歩みます」。不正や不信仰が満ちている社会のなかで、預言者アモスは「みんな神さまの御心に反して生きている。それはよくない」と言いました。神さまの御心にしたがって、善を求め、悪を遠ざけ、私たちの社会が良き社会になるようにしていこうと、人々に呼びかけました。

 イエスさまはお生まれになられたあと、ヘロデ王から命をねらわれ、そしてエジプトに難民となって逃げることになりました。そのときヘロデ王による幼児虐殺が行われ、人々は王の圧政に苦しみます。しかし聖書は同時に、そうした大変な出来事の中で、神さまの導きがあり、イエスさまたちが守られたということが記しています。

 また悲しい出来事も「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」と、マタイによる福音書は記しています。これは悲しい出来事を神さまが行われたのだということを言っているのではありません。悲しい出来事が起こったけれども、しかし神さまはそのことを知っていてくださるのだということです。神さまが知っていてくださり、そしてそののち、神さまの御心が行われていくのだということが記されているのです。

 イエスさまの誕生の物語の後半は、イエスさまが大変な出来事に出会うという物語です。しかしそうしたなかにあっても、【主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった】と記され、預言者たちをとおして示されている神さまの御心が行われていくことが記されてあります。

 私たちは生活のなかで、いろいろな出来事に出会います。うれしいこともありますが、悲しいこともあります。とても受け入れがたい出来事だと思えるような出来事をも、私たちは拳々します。しかしそうしたなかにあっても、私たちは神さまの導きがあると信じて歩んでいます。神さまは私たちを愛してくださり、私たちを導いてくださいます。

 新しい年も、神さまの愛のうちを、お迎えしたイエスさまと共に歩んでいきたいと思います。

 

2025年1月4日土曜日

2024年12月29日

 2024年12月29日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

「新しい生き方としてのクリスマス」 山下毅牧師

  マタイによる福音書 2:1-12/ヨハネ黙示録22:16節

 朝祷会のメンバーの中に、京都大学医学部教授の高橋裕子先生がおいでになります。先生の手記によりますと、復活されたイエス・キリストに会われたのです。「私は、2014年2月3日、——あなたに、命を与え、60年間育ててきたのは私である。私はあなたを医者にして、今の立場を与えた。私はあなたを私の計画に用いる。だから、私に従いなさい」という声を、体の中に爆発したように言葉が入ってきたのです。——今までクリスチャンでなかった高橋先生は、それから本当に熱心なキリスト者になり、現在活躍しておられます。

 私は毎週高橋先生にお会いし、祈りを共にさせていただいている中で、復活されたイエス・キリストは私どもと共に生きておられると、本当に確信するようになりました。

 クリスマスには二つの意味があります。一つはイエス・キリストが馬小屋で生まれ、学者達が東方から来た、神さまの愛の「しるし」として、見えない愛が、見える形として現れました。

 もう一つはヨハネの黙示録の中でイエス自ら「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」と証しされ、復活された、イエス・キリストが私たちと共に生きていると言われます。

 第一の視点では、ユダヤ人にとっては、敵国であり、占い師の学者達、星の導きを頼りに、本当の人生を求めて、イエス・キリストに出会う姿は、私たちが信仰を求め、荒野をさ迷う姿に似ています。イエス・キリストに出会い、喜びにあふれ、違う人間に変えられた私たちの姿を映しています。

 第二視点では、ヨハネの黙示録の中で「わたしイエス」はというふうに、イエスご自身が今も生きていたもう、そしてなまの自己紹介を、わたしたち一人一人に語りかけておられるのです。「わたしイエスは、輝く明けの明星」と述べられるのです。 そこには暗い夜が明けて朝がくるのです。

 私たちの生き方は、「この世で勝利する生き方」自己中心、自己愛ではなく、「この世に勝利する生き方」に招かれています。神中心から始まり、地の塩、世の光、存在そのものに価値を見出し、成長への希望、完成への喜びを見いだす生き方です。キリストの復活は、私たちの生き方そのものを根本から変えてくださり、たえず祈りへと導いてくださいます。