2025年4月12日土曜日

2025年4月6日

 2025年4月6日 受難節第5主日礼拝説教要旨

「イエスさまの杯、苦い杯」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 20:20ー28節

 大山崎美術館に「松本竣介 街と人 ー冴えた視線で描くー 展覧会」を見にいきました。松本竣介は明治から昭和にかけて生きた洋画家です。美術雑誌の『みづゑ』は、1940年に軍部による座談会「国防国家と美術―画家は何をなすべきか―」を掲載します。それに対して、松本竣介は1941年に『みづゑ』の4月号に「生きてゐる画家」という文章を発表します。まじめな常識人であった松本竣介は、自分が画家としてしっかりと立ち、そして国家からの干渉を受けて、志が曲がってしまうようなことではだめだというような思いをもっていたのだろうと思います。

 人は誘惑に陥りやすいですから、少々志に反したことをしても、立身出世であるとか、自分の生活が守られることのほうが大切だという気になることもあります。また人間、いつもいつも強いわけではないですから、このときは立派に生きることができたということもあれば、あのときはなんかダメな人間だったなあと思えるときもあります。神さまの前に、いつもいつもすばらしい人間であることができるのであれば、それにこしたことはないわけですが、しかしまあそういうわけにもいかないという人間の弱さがあるわけです。

 ヤコブとヨハネの母はヤコブとヨハネを連れて、イエスさまのところにきて、ヤコブとヨハネの立身出世を願います。それを聞いた弟子たちはみんな腹を立てます。みんな同じことを考えていたからです。

 イエスさまは弟子たちを諭されました。イエスさまは私たちに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と言われました。あなたたちは迷ったり、不安になったりするけれども、でも神さまはあなたたちのことを見ておられる。だからあなたたちは皆に仕える生き方をしてほしい。高慢になり、人をつかおうとする生き方をするのではなく、皆に仕える生き方をしてほしい。わたしがそのように生きたのだから、あなたたちもまたそのように生きてほしい。あなたたちのなかにあるやさしい気持ちを大切にしてほしい。あなたたちのなかにある思いやりの気持ちを大切にしてほしい。

 レント・受難節も第5週目を迎えました。来週は棕櫚の主日を迎えます。十字架への道を歩まれるイエスさまが、私たちを導いてくださっています。やさしい気持ちになって、イエスさまに従って歩んでいきましょう。


2025年4月4日金曜日

2025年3月30日

 2025年3月30日 受難節第4主日礼拝説教要旨

「十字架のイエス・キリストに仕える」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 17:1-13節

 科学史家の村上陽一郎さんは、「『復活』という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる」(「永遠のいのち」『私にとって「復活」とは』、日本基督教団出版局)と言っています。村上さんは、とにかく何であろうと、存在したものはすべて、神さまの中に存在しているのだ。すべてのものは神さまのなかに生きていると言っています。私たちはそういうかけがえのない人生を送っています。そして私たちは永遠に神さまの中に生き続けるのです。

 山上の変貌と言われる聖書の箇所で、イエスさまの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなります。そしてモーセとエリヤがイエスさまと語り合います。しかしその後モーセとエリヤは消え去り、イエスさまがだけが残りました。

 ペトロにとってモーセとエリヤと一緒にいた光り輝くイエスさまは、とても魅力的な人に見えました。わたしも仲間に入れてもらいたいと思えるすばらしい人に見えたのです。わたしも仲間に入れてもらって、モーセさま、エリヤさま、イエスさま、ペトロさまと言われたい。

 しかしペトロの人生にとって、この出来事が大切な出来事であったかと言うと、あまり意味のある出来事ではありませんでした。ペトロが人生を振り返って、自分にとって大切な出来事とは何なのかと考えたとき、ペトロは光り輝くイエスさまの姿ではなく、十字架につけられてぼろぼろになっているイエスさまの姿こそが、わたしにとって意味のあることだったと答えるでしょう。ペトロを救ってくださったのは、光り輝くイエスさまではなく、十字架の上で苦しまれるイエスさまでした。そしてペトロは生涯、十字架につけられたイエスさまに付き従って歩んだのでした。

 いろいろなものは色あせていくけれども、イエスさまによって救われたということだけは、色あせてしまうことがない。光り輝くモーセやエリヤは消え去ってしまうけれども、十字架への道を歩まれるイエスさまだけは、いつも私たちと共にいてくださる。

 私たちは平凡な人間に過ぎないわけですが、神さまにとっては大切な一人です。神さまは私たちを救うために、独り子であるイエスさまを十字架につけられ、私たちの罪をあがなってくださいました。私たちは取るに足らないものですが、しかし神さまにとってはひとりひとりがかけがえのないダイアモンドであるのです。そして私たちは、永遠なものである神さまにつながっているのです。


2025年3月28日金曜日

2025年3月23日

 2025年3月23日 受難節第3主日礼拝説教要旨

「神さまの祝福を受けて生きる」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 16:13-28

 賀川豊彦は、大正・昭和期のキリスト教社会活動家です。賀川豊彦は若い頃、『プラトン全集』を買うためにマヤス宣教師からもらったお金で自分の制服を買いました。しかしそのあと悔やんだ賀川豊彦は出来たての制服を再びお金にかえて旅費にして、マヤス宣教師に赦しをこうためにマヤス宣教師のところに向かいます。そのとき賀川豊彦は死んでお詫びしなければならないというように思い詰めていたようです。賀川豊彦はしばらく放浪したあと、マヤス宣教師のもとを訪ね、マヤス宣教師はとても怒ったのですが、結局、賀川豊彦を赦します。(工藤英一「賀川豊彦の学生時代」『明治期のキリスト教』、教文館)。

 人間ってだめなこともあるけれども、悔い改めて生き直そうという気持ちをもつことができるというのは、人間ってすてきだなあと思います。わたしは賀川豊彦のすばらしいと言われる数々の事業よりも、なんとなく賀川豊彦のだめなところとまじめなところが出ている、この賀川豊彦の服の話のほうに心ひかれます。

 使徒ペトロは信仰告白をしたことによって、イエスさまからほめられます。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われます。

 しかしそのあと、使徒ペトロはイエスさまがご自分の十字架と復活について話をされたとき、イエスさまをいさめます。そしてイエスさまから「サタン、引き下がれ」と叱責されます。使徒ペトロはイエスさまから誉められたことによって、いつのまにか高慢になってしまい、この世での自分の誉れについて考えるようになっていました。イエスさまは弟子たちにとてもきびしいことを言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

 私たちは自分が使徒ペトロのようにだめな人間であることを知っています。イエスさまについていきたい。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまについていきたい。そのように思いながら、またいろいろな困難や誘惑の前に、どうしたらいいのかわからなくなります。しかしそんな私たちを神さまはとらえて導いてくださいます。

 私たちは神さまの祝福を受けて生きています。このことを喜びをもって受け入れ、キリスト者として神さまの祝福を一杯に感じて歩んでいきましょう。


2025年3月21日金曜日

2025年3月16日

 2025年3月16日 受難節第2主日礼拝説教要旨

「悪魔はどんな顔でやってくる?」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 12:22-32節

 元敬和学園高等学校校長の小西二巳夫牧師は、「先生の思いどおりにやってくださったらいいですよ」と言われるようになったら、校長をやめようと思っていたそうです。それ以上続けていると、自分の意見に賛成する人だけになり、自分が高慢になってしまう。小西二巳夫牧師は高慢になるような方ではないと思うわけですが、しかし小西二巳夫牧師は高慢になる気配をおそれて、新しい歩みへと出発をされたということでした。

 いつのまにか二つに一つというような対立構造ができあがり、敵か味方かというような雰囲気になり、ちょっと困ったなあというようなことになることがあります。いまのアメリカの政治情勢は、「敵か味方か」というような感じになってしまっていると言われたりします。しかしまあ、世の中、ふつうに考えると、「敵か味方か」というふうに二つに分類できるわけがないので、落ち着いて考えてみるということが大切であるわけです。

 「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」というイエスさまの御言葉を聞くと、私たちは「あいつがイエスさまに敵対し、あいつが散らしている者だ」というふうに思えます。「あいつがいなければ、うまくいくのに」というような気持ちになります。「もうわたしの周りにはファリサイ派の人々や律法学者たちが多過ぎて困るわ」という気持ちになります。しかしまあ、多くの場合、それは気のせいです。私たちの横でサタンが耳打ちしているので、そんな気持ちになるのです。サタンはにこにこと微笑みながら、私たちの横で「そうだよね。そうだよね」と相づちをうってくれています。高慢のなせるわざというのは、こうしたところが怖いところで、いつも自分はイエスさまの側、神さまの側にいるかのような気になるわけです。「怖いなあ」と思います。

 イエスさまは「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」とも言っておられます。いたずらに争うことなく、落ち着いて、神さまの御心とは何であるのか。自分は高慢になっていないのかと、振り返ってみる歩みでありたいと思います。

 レント・受難節のときを過ごしています。私たちの罪のために、イエスさまが十字架についてくださったことを覚えて過ごしたいと思います。私たちのこころのなかにある邪な思いを、イエスさまに取り除いていただきたいという思いをもって、謙虚に歩んでいきましょう。


2025年3月14日金曜日

2025年3月9日

 2025年3月9日 受難節第1主日礼拝説教要旨

「良い物をくださる神さま」 小笠原純牧師

マタイによる福音書 7:7-12節 

小曽根俊子さんは生れてまもなく高い熱がでて、それがもとで体とことばが不自由になりました。小曽根俊子さんは詩を作るのが好きだったので、いろいろな詩を書きました。その一つが「花」という詩です。 

  さあ涙をふいて

  あなたが花になりなさい

  あなたの花を咲かせなさい

  探しても探しても

  あなたの望む花がないなら

  自分がそれにおなりなさい

 小曽根俊子さんは体が不自由だったので、なかなか自分のことが思い通りになりませんでした。だから、たぶんとっても悔しい思いをしたり、涙が出ることもあったんだろうなあと思います。でも、小曽根さんはやっぱり「涙をふこう」と思いました。「さあ涙をふいて」、わたしの花を咲かそうと思いました。

 人のことを悪く言ったり、人が自分のことをわかってくれないということに腹を立ててばかりいるのではなく、わたしが人のことを愛してあげて、人のことをわかってあげられるやさしい人になろう。

 イエスさまは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われました。それは「あなたたちには神さまがついているから、大丈夫だよ」ということです。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と言われました。それは「私たちの神さまは私たちに良いものを必ずくださるから、大丈夫だよ」ということです。そしてイエスさまは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われました。「あなたにはやさしい気持ちがあるから、それを大切にしなさい。大丈夫だよ」ということです。

 イエスさまは私たちに、「神さまはあなたたちのことが大好きだから安心して、悲しいことやつらいことがあっても、勇気を出しなさい」と言われました。神さまはいつも私たちと一緒にいてくださって、私たちを守ってくださっています。神さまの愛のうちを、安心して歩んでいきましょう。


2025年3月8日土曜日

2025年3月2日

 2025年3月2日 降誕節第10主日礼拝説教要旨

「イエスさまに強く願う」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 14:22-36節

 京都教区の沖縄現地研修で、2/17から2/20にかけて沖縄を訪れました。30年ほど前、関東教区の沖縄現地研修に参加しました。当時と同じように沖縄には米軍基地がたくさんあり、そして辺野古には新たな基地が建設をされようとしています。沖縄県の人たちは二度と戦争はしたくないということについて、私たちよりもとても強い思いをもっておられます。平和を求めて祈ることの大切さを改めて思わされました。

 今日の聖書の箇所の「湖の上を歩く」という聖書の箇所は、初期のキリスト教の状況を表わしている聖書の箇所です。イエスさまが天に帰られ、人々は目の前にイエスさまがいないというなか、イエスさまを信じて歩んでいくことになります。どんな人も、人間ですから不安な気持ちになりますし、また信じられないというような気持ちになります。それは人間ですから、仕方がないのです。初代教会の頭であり、イエスさまの一番弟子である使徒ペトロでも、不安になったり恐れたりするのです。

 ペトロはイエスさまから「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。そしてペトロはイエスさまに水の上を歩きたいと願います。水の上を歩くというできそうもないことを、ペトロはイエスさまに願うのです。ペトロは不安であったと思います。しかしイエスさまは「来なさい」と言われます。わたしをしてわたしのところに「来なさい」と、イエスさまは言われます。そしてペトロは勇気を出して、イエスさまの招きに応えます。しかし風が強くふき、ペトロは不安になります。やっぱりだめなのではないかと思います。そして事実、ペトロは湖に沈みそうになります。「ああ、だめだ」と思えた時、イエスさまは手を差し伸べてくださり、ペトロを救ってくださいました。「ああ、だめだ」と思えるとき、イエスさまは救いの御手を差し伸べてくださる方であるのです。

 いまは私たちの世の中は、力でものごとを解決する道を選ぶことが多くなり、正しさややさしさがないがしろにされることが多くなっています。ウクライナやパレスチナでは戦争が続き、ミヤンマーでは軍事政権が続いています。「私たちの世界が平和な世界になりますように」という私たちの祈りも、力によってかき消されてしまいような気持ちになってしまいます。しかし私たちはやはり、「平和な世界になりますように」との祈りを、イエスさまに、神さまに強く祈り続けていきたいと思います。


2025年2月28日金曜日

2025年2月23日

 2025年2月23日 降誕節第9主日礼拝説教要旨

「わたしもイエスさまにほめられたい。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 15:21-31節

 「私は褒められて伸びるタイプだから」というようなことが、一時期、よく言われていました。わたしも「私は褒められて伸びるタイプだから」というようなことが言える時代に育ちたかったなあと思います。

 イエスさまはティルスとシドンの地方に行かれ、そこでカナンの女性に出会います。カナンの女性は病気の娘をいやしてもらおうと、イエスさまにお願いをします。しかしイエスさまからやんわりと断られます。カナンの女性があきらめることなく、一生懸命に、そしてとんちをきかせて、イエスさまに頼み続けたので、イエスさまは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われました。そして女性の娘の病気は、イエスさまによっていやされました。

 カナンの女性も、ユダヤの群衆たちも、「つらい思いをしている人を助けたい」というまっとうな思いをもっていました。病気の娘をいやしてもらいたい。隣に住んでいる足の不自由な人をいやしてもらいたい。目の見えない友だちが見えるようになってほしい。体の不自由な義理の娘が、歩けるようになってほしい。自分が病気であるわけではないけれども、「つらい思いをしている人を助けたい」。そうした思いをもっていた人たちは、イエスさまが病気の人や体の不自由な人が癒やされるのをみて、神さまを賛美したのでした。

 イエスさまはカナンの女性のどんなところをほめられたのかが、気になるかも知れません。わたしは、それは「カナンの女性がおもしろいことをいったから」だと思いますが、ですからみなさんに「カナンの女性のように、みんなおもしろいことを言う人になりましょう」というお話をするわけにもいきません。しかしカナンの女性がなにかしたから、イエスさまがほめられたということよりも、ただイエスさまがカナンの女性をほめてくださったということのほうに、わたしは大きな意味があると思います。イエスさまはしんどい思いをしているカナンの女性をほめてくださったように、しんどい思いをしている私たちをほめてくださる方なのです。イエスさまは小さき者たちを顧みてくださる方なのです。私たちの悩みや苦労を知っていてくださり、私たちをほめてくださる方なのです。

 いまもイエスさまは一生懸命に生きておられるみなさん、ひとりひとりをほめておられます。「あなたの信仰は立派だ。安心していきなさい」。そんなイエスさまに導かれて、神さまの愛のうちを、私たちも歩んでいきたいと思います。


2025年2月22日土曜日

2025年2月16日

 2025年2月16日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

「ここにいますよ〜イエスの神殿」 俣田浩一牧師

  ヨハネによる福音書 2:13-22節

 イエスは神殿から商人達を追い出します。でも境内で売り買いされていた牛や羊や鳩は捧げもの用でした。遠くから来る巡礼者達は、牛や羊を連れて旅する分けには行きません。身軽に旅をして、捧げ物は神殿で買うのです。また神殿では献金用のユダヤの伝統的な貨幣に交換する必要がありました。そのために両替人が境内にいたのでした。ですからこれらの商売は必要でした。イエスはそれを破壊したのでした。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。」ユダヤ人達はすぐに反応します。「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか。」それに対してイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言います。しかし建てるのに四十六年もかかった神殿を、あなたは三日で建て直すのかと、ユダヤ人達はまた不審に思います。しかしイエスが言う神殿とは御自分の体のことでした。つまり死と復活のことでした。するとなぜイエスはそれを言うために神殿にいる商人達を追い出したのでしょうか。

 過越祭の「過越」はギリシア語で「パスカ」、これはあるものから別のものへと変わるという意味の言葉です。別のものに変わるということは交換が可能ということです。それはお金とも交換可能です。つまり商売です。物はお金と交換されます。価値の交換である商売を神殿でしていた。イエスはどうもそれが気に入らなかったようです。価値の交換をしてはならない、商売をしてはならない。それはなぜか。イエスにとって、神殿、父の家とは交換出来ないものを扱うところだったからです。交換できないもの、それは神から与えられたいのちです。十字架の死からの三日後の復活に顕される、神から与えられた永遠のいのち。「建て直す」という言葉は「よみがえる、復活する」と同じ言葉です。死と復活に示される私達を創られた神との根源的な関係は、何を持ってしても交換できない、かけがえのない関係なのだと。そのことを扱う場所が神殿だと。イエスはそれを言おうとした。そしてそれを行動で現したのではないかと思います。結果的にはこの行為がイエスを十字架の死へと招きました。神から与えられたいのちは何を持ってしても代えられないもので、死に勝利する復活の永遠のいのちだと、イエスは自らの命を持ってそのことを伝えたのでした。


2025年2月14日金曜日

2025年2月9日

 2025年2月9日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

「すなおにおなり」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 5:1-11節

 この聖書の箇所はイエスさまの弟子たちの召命物語です。しかしどうして弟子たちはこうも素直に、イエスさまにつき従うことになったのでしょうか。「すべてを捨てて」イエスさまに従うようになったのでしょうか。わたしは弟子たちが、暗い湖を見つめながら、自らの心の深淵に思いをはせる、自分の罪を深く顧みることがあったからだと思います。弟子たちは暗い湖をみつめるという日常の生活の中から、イエスさまの御言葉に出会ったのです。

 ペトロたちは「夜通し苦労する者」だったのです。ペトロたちは貧しい漁師として生きていました。夜通し苦労しても、何もとれないことがある。食べていかなければならないのに、食べていくための魚は十分には得られない。貧しさの中で、互いに口論することもあったでしょう。「あいつが悪いから、漁がうまくいかなかった」「なんであいつはいつもいばってるんだ」「ちゃんとだんどりをやっとけよ」「なんだその言葉遣いは」。そんなことが私たちの日常生活と同じように起こっていただろうと思います。

 そして暗い海をみつめながら、自らのことを思うのです。「なぜ自分はもっと思いやりのある言葉をかけることができないのだろう」「みんな貧しくて苦労しているのに、自分のことだけ考えて、うまくたちまわるのだろう」「どうして仲間のたらないところを、心優しくおぎなっていくということができないのだろう」「なぜいつもいらいらいらいらして、互いに傷つけあっているのだろう」。暗い夜の湖をみつめながら、正しく生きられない自分の罪を顧みていたのです。「神さま、わたしはほんとうにあなたから祝福されているのでしょうか」「神さま、わたしはあなたから愛されているのでしょうか」。暗い湖のうえ、舟に揺られながら、自分の揺れるこころと向き合っていたのだと思います。

 夜の暗闇の湖に揺られながら、自らの魂の深淵をみつめていたペトロやヨハネやヤコブは、イエスさまと出会い、イエスさまについていきました。私たちもまた罪と暗闇の湖に揺れながら、迷い、傷つき生きている者です。そんな私たちをイエスさまは「恐れるな」「そのままでいいんだ」「素直になりなさい」と招いてくださっています。イエスさまの招きに応え、イエスさまにつきしたがっていきましょう。


2025年2月8日土曜日

2025年2月2日

 2025年2月2日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

「ほっとできるところがいいよね。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 21:12-16節

 2年ほど前、長野市の公園が閉鎖になるというニュースがありました。住宅街にある公園で、日中は保育園児が、夕方は小学生たちが多数訪れて遊んでいた公園でした。公園の閉鎖が残念と感じる人もいるでしょうし、静かになってほっとすると感じる人もいるでしょう。なかなか解決のむつかしい問題です。

 いろいろな人が事情を抱えた人が、教会に集ってきます。集う人が安心してくることができるということは、とても大切なことだと思います。当り前のことですが「怒られた」ということを経験すると、やはりその場所から足が遠のいてしまいます。しかし互いに思いやりを大切にして、みんながほっとできる教会でありたいと思います。

 政治哲学者のマイケル・サンデルは、朝日新聞のインタビューのなかで、「公の場の再構築」「多様な階層の人が交ざりあう公の場を再興しましょう」と言っています。みなさんは「多様な階層の人が交ざりあう公の場」と言われて、何を思い浮かべられますか。わたしは、それはまさに「教会」という場だと思いました。これからの社会の中で、「多様な階層の人が交ざりあう公の場」としての「教会」の果たす役割というのは、とても大きなものだと思います。

 教会ではどの人も、神さまの前に立つ一人の人です。その人が社会的にどのような地位にあっても、どのような仕事をしていても、女性であろうと、男性であろうと、あかちゃんであろうと、壮年であろうと、みんな神さまの前に立つ一人の人であるのです。そしてみんな礼拝に集い、神さまをほめたたえるのです。教会は社会の緩衝材としての大切な役割があるのだと思います。

 祭司長たちや律法学者たちは、自分の都合の悪い人たちに対して、腹を立てていました。こどもがイエスさまのことを「ダビデの子にホサナ」「イエスさまに神さまの祝福がありますように」と言うのを聞いて、腹を立てていたのです。それに対して、イエスさまは「子どもたちが自由に語ることができるようなところでないと、その場所は神さまから祝福を受けた場所とは言えないよ。聖書にも、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』と書いてある」と言われました。

 対立の多い社会の中にあって、私たちは安心して集うことのできる場所としての教会の歩みを大切にしたいと思います。教会がほっとできる場所となる。また教会に集う私たちが、世の人に対して、ほっとできる人になることを、心がけていきたいと思います。

 

2025年1月31日金曜日

2025年1月26日

 2025年1月26日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

「怒りについて」 大谷隆夫牧師

  ヨハネによる福音書 2:13-22節

 私が、関西労働者伝道委員会の専任者として働き始める直前の半年間ほど、アメリカのホームレスの人たちの実態を知るために、アメリカに滞在したことがあります。そのアメリカ滞在中の出来事ですが、ある時、ルカ福音書10章25~37節に書かれている、サマリヤ人にならって、テレビを観ているみなさんも、ホームレスの人々に出来るだけ支援していくためにカンパをしてください!という内容のテレビのコマーシャルが流されたのです。

 実は、私はその時、アルバイトをしていたのですが、そのアルバイトの賃金は非常に低賃金だったのですが、ちょうどこのテレビのコマーシャルが流された時に、私の雇い主もこのテレビのコマーシャルを一緒に観ていて、「TAKOさん!私はホームレスの人たちにもカンパをし続けているんです!」ということを言ったわけです。

 その時に私が思ったことですが、ホームレスの人たちにカンパをするのも良いが、もっと自分の賃金を上げて欲しいと思いましたし、このルカ福音書10章25~37節に書かれている、「善いサマリヤ人のたとえ話」は、単純に隣人愛の話だと考えてはいけないのではないかということでした。追いはぎに襲われ、半殺しの状態に置かれていたある人に出会った時に、サマリヤ人がどう感じたのかということです。私はそこにサマリヤ人の「怒り」というものを感じるわけであります。追いはぎに襲われ、半殺しの状態に置かれていた、そういった不条理な状態にある人が置かれていることに対する、社会悪に対するサマリヤ人の「怒り」であります。このサマリヤ人の「怒り」はイエスの「怒り」でもあるわけですが、このイエスの「怒り」の総決算と言うべきものが、今日、選んだ聖書の箇所に書かれている、イエスが神殿から商人を追い出した行為であると言えます。

 良く考えて見れば、私の30年以上に渡る釜ヶ崎の歩みを支えて来た原動力は、釜ヶ崎日雇労働者、野宿を余儀なくされている労働者が置かれている、不正義、不当な、社会悪に対する怒りであり、憤りであったと思います。

 今日の聖書の箇所に書かれている、イエスのように、いわゆる「社会悪」に対して、本当に怒るべき時は、たった一人でも、支持してくれる人が誰もいないような状況であっても、怒り続けて行きたいと改めて思わされている次第です。

 

2025年1月25日土曜日

2025年1月19日

 2025年1月19日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

「イエスさまに治していただく」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 4:18-25節

 俳優の北川景子は小学生のときに、神戸で阪神大震災を経験しています。自宅や家族は無事でした。それでも「なぜ自分がこんな目に逢うのか、亡くなった人はどうして亡くならないといけなかったのか」。とても気持ちが落ち込みます。

 北川景子は数年後、大阪にあるキリスト教系の中学校である、大阪女学院に入学をします。【転機は中学時代。キリスト教系の大阪女学院に入学すると、震災以来の不安感や絶望感が次第に薄れていく。きっかけは言葉の力だった。今でも忘れられないのが、入学式後に教師から教えてもらった「置かれた場所で咲きなさい」という語句だ。ずっと「なぜ自分が」と狭い世界の中で思考を巡らせていたが、それぞれの環境で頑張ればいいと「腑(ふ)に落ちたというか、救い、気づき、導きになった」。他にも「神は乗り越えられる試練しか与えない」「人にしてもらいたいことをしてあげなさい」など、たくさんの言葉が思春期の心を支える】(日本経済新聞の2025年1月5日)。

 「四人の漁師を弟子にする」という物語のなかで語られる、「すぐに網を捨てて従った」「すぐに、舟と父を残してイエスに従った」というときの、「捨てて」とか「残して」というのは、がんじがらめになっていたものから解き放たれていくというようなイメージなのだと思います。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、なんとなく自分でどうしたら良いのかわからず過ごしていたのだと思います。そんなとき、彼らはイエスさまに出会い、イエスさまから「わたしについてきなさい」と声をかけられます。彼らはかんじがらめになって、自分でもどうしたらよいかわからなかったけれども、イエスさまから声をかけられ、「この人についていこう」と思い、新しい歩みを始めます。

 このわたしのこころのなかにあるどうしようもない邪な思いを治していただきたい。自分でもこの気持ちをどうにかしなければならないと思うのだけれども、どうしても断ち切ることができない。人の思いは複雑ですから、自分の思いでありながら、自分でどうすることもできないというようなこともあります。私たちは自分ではどうすることもできないけれども、でもイエス・キリストは私たちを癒やしてくださり、私たちに新しい命を与えてくださいます。そして私たちに新しい力を与えてくださり、前を向いて歩んでいく力を与えてくださいます。

 イエスさまが、私たちを招いてくださっています。イエスさまの招きに応えて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。



2025年1月18日土曜日

2025年1月12日

2025年1月12日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

「おぼろに見ている」 小笠原純牧師

  1コリント 13:1-13節

 パウロさんは大切なことが三つあると言いました。「信仰と希望と愛がとても大切」。それでこの三つの中でもっとも大切なのは、何なのか。パウロさんは「信仰の人」だったから、「もっとも大切なのは信仰だ」と言ってもおかしくないような気がするのですが、でもこう言いました。「その中で最も大いなるものは、愛である」。「愛は神さまがくださるものだから、やっぱり一番大切だ」と、パウロさんは思っていました。

 パウロさんは「人間ははっきりとものをみていない」と思っていました。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」と言っています。「自分のことは自分がよく知っている」というのであれば、自分の顔がどんな顔かはっきりと見ていてもいいような気がしますが、私たちは自分の顔を直接見ることはできません。私たちは自分の顔も「鏡に映ったものを見ています」。

 私たちは意外に自分のことを知りません。周りの人のほうがはるかにわたしのことを知っているということがあります。みなさんのお母さんは、みなさんがどんなにかわいらしく笑うかを知っています。みなさんのお父さんは、みなさんがどんなに気持ち良さそうに眠っているのかを知っています。みなさんの友だちは、みなさんがどんなにやさしい顔を友だちにむけてくれるのかを知っています。みなさんの恋人は、みなさんがどんなにすてきな瞳で自分をみつめてくれるかを知っています。

 「私たち人間が見ているものは、鏡におぼろに映ったものにすぎない」のです。だから私たちはお互いに謙虚にならなければなりません。私たちが真理を振りかざして人を問いつめようとしたり、人を裁こうとするとき、自分が絶対に正しいと思い込んでいるとき、私たちは自分たちが見ているものが「鏡におぼろに映ったものにすぎない」ということを思い起こさなければなりません。

 大切なことは神さまが私たちを愛してくださっているということです。自分がりっぱであるとか、自分がりっぱでないとか、そういうことが大切なのではない。神さまがわたしのことを愛してくださっているということが大切なのだと、パウロさんは言いました。

 私たちは大きな神さまの愛のなかに生かされています。神さまが私たちを守ってくださっています。私たちのことを愛してくださる神さまにより頼んで、神さまの愛に感謝して歩んでいきましょう。

 

2025年1月11日土曜日

2025年1月5日

 2025年1月5日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

「神さまの導きに従って」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 2:13ー23節

 2025年を迎えました。新しい年も皆様のうえに、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。

 毎年、わたしは年賀状に、聖書の言葉を書くことにしています。「善を求めよ。悪を求めるな。 お前たちが生きることができるために(旧約聖書 アモス書5章14節)」「私たちの世の中が、奪い合いではなく、わかちあいの世の中であることを信じて歩みます」。不正や不信仰が満ちている社会のなかで、預言者アモスは「みんな神さまの御心に反して生きている。それはよくない」と言いました。神さまの御心にしたがって、善を求め、悪を遠ざけ、私たちの社会が良き社会になるようにしていこうと、人々に呼びかけました。

 イエスさまはお生まれになられたあと、ヘロデ王から命をねらわれ、そしてエジプトに難民となって逃げることになりました。そのときヘロデ王による幼児虐殺が行われ、人々は王の圧政に苦しみます。しかし聖書は同時に、そうした大変な出来事の中で、神さまの導きがあり、イエスさまたちが守られたということが記しています。

 また悲しい出来事も「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」と、マタイによる福音書は記しています。これは悲しい出来事を神さまが行われたのだということを言っているのではありません。悲しい出来事が起こったけれども、しかし神さまはそのことを知っていてくださるのだということです。神さまが知っていてくださり、そしてそののち、神さまの御心が行われていくのだということが記されているのです。

 イエスさまの誕生の物語の後半は、イエスさまが大変な出来事に出会うという物語です。しかしそうしたなかにあっても、【主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった】と記され、預言者たちをとおして示されている神さまの御心が行われていくことが記されてあります。

 私たちは生活のなかで、いろいろな出来事に出会います。うれしいこともありますが、悲しいこともあります。とても受け入れがたい出来事だと思えるような出来事をも、私たちは拳々します。しかしそうしたなかにあっても、私たちは神さまの導きがあると信じて歩んでいます。神さまは私たちを愛してくださり、私たちを導いてくださいます。

 新しい年も、神さまの愛のうちを、お迎えしたイエスさまと共に歩んでいきたいと思います。

 

2025年1月4日土曜日

2024年12月29日

 2024年12月29日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

「新しい生き方としてのクリスマス」 山下毅牧師

  マタイによる福音書 2:1-12/ヨハネ黙示録22:16節

 朝祷会のメンバーの中に、京都大学医学部教授の高橋裕子先生がおいでになります。先生の手記によりますと、復活されたイエス・キリストに会われたのです。「私は、2014年2月3日、——あなたに、命を与え、60年間育ててきたのは私である。私はあなたを医者にして、今の立場を与えた。私はあなたを私の計画に用いる。だから、私に従いなさい」という声を、体の中に爆発したように言葉が入ってきたのです。——今までクリスチャンでなかった高橋先生は、それから本当に熱心なキリスト者になり、現在活躍しておられます。

 私は毎週高橋先生にお会いし、祈りを共にさせていただいている中で、復活されたイエス・キリストは私どもと共に生きておられると、本当に確信するようになりました。

 クリスマスには二つの意味があります。一つはイエス・キリストが馬小屋で生まれ、学者達が東方から来た、神さまの愛の「しるし」として、見えない愛が、見える形として現れました。

 もう一つはヨハネの黙示録の中でイエス自ら「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」と証しされ、復活された、イエス・キリストが私たちと共に生きていると言われます。

 第一の視点では、ユダヤ人にとっては、敵国であり、占い師の学者達、星の導きを頼りに、本当の人生を求めて、イエス・キリストに出会う姿は、私たちが信仰を求め、荒野をさ迷う姿に似ています。イエス・キリストに出会い、喜びにあふれ、違う人間に変えられた私たちの姿を映しています。

 第二視点では、ヨハネの黙示録の中で「わたしイエス」はというふうに、イエスご自身が今も生きていたもう、そしてなまの自己紹介を、わたしたち一人一人に語りかけておられるのです。「わたしイエスは、輝く明けの明星」と述べられるのです。 そこには暗い夜が明けて朝がくるのです。

 私たちの生き方は、「この世で勝利する生き方」自己中心、自己愛ではなく、「この世に勝利する生き方」に招かれています。神中心から始まり、地の塩、世の光、存在そのものに価値を見出し、成長への希望、完成への喜びを見いだす生き方です。キリストの復活は、私たちの生き方そのものを根本から変えてくださり、たえず祈りへと導いてくださいます。